第170話:妙手です
ムフタルのイメージイラストを後書きに追加しました。
扉の前で、薬を飲んだ。
効くわけではない。効かないことは、とうに分かっている。それでも飲むのは、飲まなかった日に痛んだとき、飲まなかったせいだと思ってしまうからだ。
中から陛下の笑い声がした。
廊下の石にまで響く声だ。海の上で聞くと足の震えが止まるのに、陸で聞くと、ただ大きい。
私は帯の瓢を戻して、扉を押した。
*
「おう、来たか」
「遅くなりまして、申し訳ございません!」
「寝てろと言ったのは俺だ」
卓のまわりに人がいた。数えるまでもなく六人。
私は頭を下げて、顔を上げた。
そこで、若い女の方と目が合った。
その方の顔が、ほんの少しだけ動いた。眉が上がって、口が開きかけて、閉じた。
私は、その顔を知っている。
有能だと聞かされていた者が、私を見たときにする顔だ。
「セフォーの、ファティマ殿下であられますか」
「はい。……失礼をいたしました」
「いえ。いつものことです。あ、いや、特に含むところがあるわけではなく、高確率でそういった反応をされることばかりで。なので、はい、お気になさらず」
言い切ってしまってから、言わないほうがよかったな、と思った。
*
「うちの宰相のムフタルだ」
陛下が椅子の背に腕を掛けたまま言った。
「見ての通り、いつ倒れてもおかしくねぇ面をしてる。だが十年、こいつの読みが外れたのを見たことがない」
胃が痛む。
「俺は王位に付く前、この国の海軍総督だった。数々の武勲を立てて『海竜』なんて仰々しい異名をもらったのだが、五割はムフタルの手柄だと思っている」
「陛下」
「なんだ」
「五割は多すぎです。誤解を生みます」
「じゃあ四割五分だ」
笑い声が上がった。笑えない。私は水差しに手を伸ばした。
*
人を見るとき、私はいつも同じことをする。
背丈、手、靴の減り方、誰の隣に座るか。それだけで、その人がどこで何をしてきたかは、たいてい分かる。
外れることもあるが、外れたときは後で分かるので、それはそれで構わない。
窓際に、白い髪の少年が座っていた。
背が低い。手が荒れている。靴は新しい。誰の隣にも座っていない。
そこまで見て、私は次の方へ移った。移ってから、また戻った。
*
卓に紙を広げた。
これは私の仕事だ。喋るのは苦手だが、この紙のことなら喋れる。
「ロルオーは、海賊を雇っております」
ファティマ殿下がお尋ねになった。
「厄介な相手なのですね?」
「ええ、厄介です。ただの海賊ならそう警戒することもないのですが、なにせ陛下が退役されましたので。陛下に恨みを持つものがほぼ全て、ロルオーに集まりました」
「ほぼ全て」
「はい。陛下が海軍総督のうちは勝ち目がない。退役すれば別。といったところでしょう」
「俺のせいだ、と言われているように聞こえるが?」
「それ以外に聞こえたなら、私の説明が不十分でした」
「おい」
無視して紙に戻る。
「先ほどロルオーが雇っている、と申しましたが、これは私どもの言い方でして。当然ながらロルオーはそう認めておりません。ですが銭の出どころは追えます」
「追えるのか」
黒ずくめの男が言った。傭兵だと聞いている。声が短い。
「はい。買った塩の量と、払われた金が合いませんので。合わない分が、海に出ております」
男は少し黙ってから、「なるほど」とだけ言った。
私は、この方は話が早いな、と思った。
「襲われているのは、船だけではございません。港が焼かれます。船を沈めるより、港を焼くほうが早いのです」
「なぜ」
「船は逃げますが、港は逃げませんので」
*
「一つ、お願いがございます」
ファティマ殿下が仰った。
「あと二名、同席をお許しいただけますでしょうか。一人は数を読みます。もう一人は、いずれ同じ卓に着く者ですので」
陛下は即答した。
「構わん。入ってもらえ」
入ってきたのは、眼鏡を掛けた小柄な娘御と、背の高い若い方だった。
娘御のほうは、部屋に入るなり卓の上の紙を見た。挨拶より先に紙を見た。
「セヴィリーナ・ソルだよ」
「ロロアのライアンと申します。本日は末席にて、勉強をさせていただきます」
陛下は、その二人を見た。
顔つきは変えずに、見た。
私は、それが何をしているところなのかを知っている。
はてさて、今のところはどのような値札が付いているのやら。
*
「ヴィタリス、そしてセフォーの兵のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
私が問うと、傭兵が答えた。
「俺の団だけで二千だ」
「その、報告では、その方々は……」
「留まるもの、と呼ばれている」
言い切られた。
報告は読んでいた。読んで、誇張だと思っていた。ものを大きく書くのは、報せを持ってくる者の癖だからだ。
「槍になる。矢にもなる。だが真価は壁だ」
「壁、と仰いますと」
「崩れん。逃げん。疲れん。夜通し立たせても文句を言わん。飯も水も要らん」
「なるほどなるほど。あの、続けてよろしいでしょうか」
「なんだ」
「失礼を承知で伺います。息は?」
「せん」
それはもう、物語か、神話の類だと思った。
*
「ロルオーは、海賊にいくら払ってるの?」
眼鏡の娘御が言った。
「一度出るごとに、船一隻あたり銀三十枚ほどかと」
「先払い?」
「半分を先に。残りは、戻ってからと見ています」
「じゃあ、焼けなくても銀は出ていくんだ」
「そうなりますね」
「雇う側は損だよなぁ」
娘御は、そこで初めて顔を上げた。
「ロルオーは金持ちなんだっけ?」
「海運は盛んです。ですが限度はあるでしょう」
「ふぅん」
なるほど。同席させたがるわけだ。
*
「港はいくつございますか」
ファティマ殿下が仰った。
「大小合わせて、十九でございます。守り手を置いておりますのは、そのうち六つ」
「では、残りの十三に、こちらの兵を置かせてください」
私は、口が先に動いた。
「それは悪手ではないかと……」
言ってから、しまった、と思った。他国の王の名代に向かって、宰相が言う言葉ではない。
「申し訳ございません。いえ、そういうつもりではなく、ですね。兵を分けるというのは、その、分けた先への対応がそれぞれ増えるということでして。また一つずつ潰される危険性も増します。守りを厚くするおつもりが、薄いところを十三も作ることになる、と。そう申し上げたかったのです。はい、あの、すみません」
「はい」
「その、……はい」
*
「その十三の港、陸の道は繋がっておりますか」
年嵩の、大柄な方が言った。伯爵と伺っている。留まるもの、とも。
「半分ほどでございます。残りは、船でなければ参れません」
「では、船を出しますな」
「左様でございます」
短く切れる喋り方をされる方だ。
*
私は、どうしても訊いておかねばならないことがあった。
「その、留まるものの皆さまは、本当に何も要らぬのでございますか」
「一つだけ、要るものがございます」
ファティマ殿下は、こちらを見て言われた。
「ヴィタリスから運びます」
「それは、こちらでは、作れぬものでございますか?」
「作れません」
私は、その一行に丸を付けた。
「ですが、食料や水のように、常時必要なものではございません。三月に一度あれば事足ります」
「なるほど」
*
「あの、いいでしょうか」
白い髪の少年、いや、エリアス陛下が初めて言葉を発せられた。
「海賊が来ると、港の人たちは困るんですよね」
部屋が静かになった。
「きっと怪我もします。痛い思いもします」
迷いのない、澄んだ瞳だった。
「私は、助けたいです」
*
私は考えていた。
兵を分けてはならない、というのは即ち、大軍であることの強みを自ら放棄することと等しいからだ。
そして何よりも、兵站と輸送の問題がある。分ける数が多ければその負担も大きくなる。
しかし、それを考慮しなくてもよいのだとしたら。
援けは要らない。囲まれても、囲んだ側が先に飢える。十三の港のどこを襲っても、倒れぬ壁にぶつかる。前払いは止まらない。銀の残り半分は受け取れない。
利の輪はつながらない。
「ムフタル」
「あのですね。先程の悪手という言葉を、訂正させてください。すみません」
私は、そういうことを言う人間ではない。私の仕事は、止めることだと思っている。
「……妙手です」
止められなかった。
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「あっはっはっ! 聞いたか。こいつが妙手と言った」
「陛下、あの」
「俺の案には言わんくせにな」
私は水差しを引き寄せて、それから、ぐいと飲んだ。
*
人が出ていったあと、陛下は窓のほうを向いたままだった。
「総じて高値。良い取引になるだろう」
「はい」
「眼鏡の娘は数が読める。傭兵は使える。若いのは伸びる。伯爵は任せられる。王女は、あの中では一番、怖い」
「……同感です」
「坊主だけ、どうにも測りきれない」
陛下は指で窓枠を叩いた。
「純粋すぎて値がつかん」
「なるほど。しかし、あの王に従うものたちは、幸せなのでしょうか」
「民を裏切らない、という一点においてであれば、恐らくこの世界で最良の王だろうよ」
私も同感だった。
「ムフタル。あちらに司祭がいると聞いた。今日は来ていなかったようだが」
「はい。ベルナールという方かと」
「そいつが何人を動かせるかを、調べておけ」
私は頭を下げた。
その名を書き留めているあいだに、また胃が痛みはじめた。
*
薬は、まだ半分ある。




