第168話:埋めていないから
ヴェルジュのイメージイラストを後書きに追加しました。
「戦のない土地を、一つ見ておきたいのです」
セシル殿がそう言ったのは、施しが終わった翌朝だった。
「城の者には施してまいりました。施していない者を、まだ見ておりません」
ファティマ様は、それを許された。
*
ロロアが近い。
行軍の道からは外れるが、二日で往復できる。私がそう申し上げると、ファティマ様は少しだけ間を置いてから頷かれた。
同行は四人になった。セシル殿と、私と、セヴィと、ディエゴである。
「なんで俺が」
「荷を運ぶ者が要るからだよ」
「ヌーノでいいだろ。休みなしで働くぞ」
「まだ荷下ろしが終わっていない」
ディエゴが文句を言うのは想定内だった。
セヴィが二つ返事で付いてきたことは想定外だった。
*
道中、セヴィがセシル殿の隣を離れなかった。
「あの薬、六年くらい前から作ってるでしょ」
「よくご存じで」
「城の記録がそう言ってた。写しがソルに来てたんだ」
「あれは、私の書いたものです」
「知ってる。字が一つも崩れてないから、書いた人が読み上げるために書いたんだと思った」
セシル殿は、そこで初めて紙から目を上げた。
「あなたを見ていると、思い出す方がいらっしゃいます」
「へえ、誰?」
「リリーベル様と申します。私の師で、私などよりもずっと先へ進んでいらっしゃいました」
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「なんで過去形なの?」
*
セシル殿の手が、紙の端で止まった。
「……それは」
セヴィはそれ以上聞かなかった。私は、その名を知らない。ヴィタリスの誰かなのだろうと思って、そのまま歩いた。
*
ロロアの門が見えた。
半年ぶりだ。
畑に人がいた。
九月だから当然だ。ロロアは麦と豆の土地で、いまは刈り入れにあたる。
鎌の音がしていた。私は、それを聞いて安心した。
去年と同じ音が響いている。手の数も、たぶん去年と同じくらいだ。
*
家令のモーリスが門まで出てきた。
「ライアン様。お帰りなさいませ」
「戻ったわけではないんだ。二日で発たないといけない」
「左様でございますか」
セシル殿を引き合わせた。ヴィタリスから薬を運んでいる方だと伝え、簡単に薬の説明もした。
モーリスは頭を下げてから、こう言った。
「少し分けていただくことは可能でしょうか」
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「持って参りました」
セシル殿がそう言うと、ディエゴは背負っていた包みを下ろした。
中から出てきたのは、壺が一つである。
「これだけです。中身も半分ほどしか入っておりません」
「モーリス。ヴェルジュを含めて何人だ?」
「十一人にございます」
モーリスは間を置かずに答えた。
「年寄りが七人。病が三人。あとは一人、春先に川で」
*
半年で十一人。
去年までなら、そこに戦で欠けた者が加わっていた。今年は加わらない。飢えた者も出ていない。
人は、それでも死ぬ。
*
「では、いちばん古い方から」
セシル殿は、そう言って壺を抱えた。モーリスが案内した先は、門を出てすぐの畑だった。
そこにはヴェルジュがいた。
私の足は、ヴェルジュに近づく前に止まった。止まってしまった。
*
顔の皮が、縮んでいた。
肉が落ちたのとは違う。皮そのものが小さくなって、下にある骨の形を、そのまま写している。
頬骨の稜と、顎の縁が、線になって浮いていた。目のまわりは落ちくぼみ、瞼が薄くなって、閉じても丸みが残らない。
唇が引いて、前歯が半分見えている。笑っているのではない。閉じきらないだけだ。
色は、日に焼けた革に近い。ただし艶がない。血の気が抜けたところに、乾きが上から重なったような色をしている。
手は、もっと進んでいた。
爪のまわりから始まって、指の関節までが枯れ枝の色になっている。皮に細かい皺が寄って、そこだけ木目のように見えた。
腐ってはいない。匂いもしない。虫もたかっていない。
ただ、乾いていた。
*
「ライアン様、お久しぶりです」
ヴェルジュが言った。
声は、喉の奥で紙をこするような音になっていた。それでも、ヴェルジュの喋り方だった。
下の子が走ってきて、その手を取った。
五つになっていない子である。埋めた日にも、離れて立っていた。
「じいちゃん、こっちだよ」
上の子は、麦の束を抱えて、そのうしろから歩いてくる。
ヴェルジュは答える。
「引っぱっては危ないぞ。転んでしまう」
通りかかった女が一人、鎌を持ったまま声をかけた。
「ヴェルジュ。そっちは終わったのかい」
「まだだ」
「じゃあ早くおしよ」
それだけだった。
*
誰も、何とも、思っていない。
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私は密かに自分を恥じた。
「皆、感謝しているのです」
モーリスが横に来て、そう言った。
「ヴェルジュは、去年の冬を越せぬはずでございました。孫が二人、残るところでございました」
ディエゴが無言で水筒を差し出してきた。
無理もない気にするな、とその目が言っていた。
*
セシル殿が、ヴェルジュの手を取った。
指の先を見る。首を見る。それから壺を開けて、肩と、首と、手の甲に塗った。
「この方が、いちばん古いのですね」
「三月です」
「では、半年」
*
セヴィが質問をした。
「あと、どのくらいなの?」
「乾き切るまで、ということでしたら」
「そう」
「半年から一年と、皆には申し上げております」
*
残り十人の家を回り終えた。それでちょうど壺の薬が尽きた。
「ライアン様」
モーリスが横に来た。
「旦那様は、お変わりございませんか」
「変わりないよ」
「それは何よりです」
父上は塗っておられる。カルロス陛下も塗っておられた。
そして、これからはロロアにも薬が届く。
*
日が傾いてから、門を出た。
なだらかに下ったところに、麦の広がりがある。
畑ではない麦だ。埋めた者の上に一握りずつ蒔いたもので、誰も刈らないから、年ごとに増えていく。
*
丈は、去年より伸びていた。
広がりは、去年と同じだった。
*
「モーリス」
「はい」
「麦が、増えていないね」
「今年は、蒔いておりません」
「埋めていないから、か」




