第139話:小さく見えた
瓶は、だいぶ前から手元にある。
向こうの使者が置いていった。小馬鹿にした薄ら笑いを浮かべて、こう言った。
「陛下のご決断を、心よりお待ち申し上げます。どうぞ民のことをお考えください」
吐き気がする。毎晩、夢に出る。
*
言われるまでもなく、わしは良い王ではない。
分かる。分かるくらいの頭はある。頭だけはあるのだ。
わしが決められぬのは、迷うからではない。どれを選んでも、死ぬ可能性があるからだ。
攻めると決めたなら、戦に負けてわしは死ぬ。
守ると決めたなら、城が落ちてわしは死ぬ。
どの道も、終わりに同じものが置いてある。
死なない道は思い浮かばない。わしにはその才が無いのだから。
選べば死ぬと分かっていて、わしはどれも選べなかった。
人は言う、『やってみなければ分からない』と。
だが、その『分からない』を選べぬのがわしの弱さだ。
*
エイブラムを呼んだ。人を下がらせた。
「痛むと言うたな」
「はい」
「どういう痛みだ」
「腿の傷が、去年の夏のままにございます」
「治らぬのか」
「恐らくは、いや、間違いなく治りませぬ」
「そうか」
治らぬと聞いて、わしは安心した。
治るのなら、それは生きておるということになる。わしが欲しいのは、そちらではない。
「エイブラム」
「はっ」
*
「わしも、そなたのように、なれるか?」
*
この男は、答えなかった。
この男が問いに答えなんだことはない。
答えぬのは、答えたくないからだと、わしは思った。思って、思い直した。
この男は、いつでも思ったことを言う。言って、何度もわしを怒らせた。
言わぬのなら、言えぬのだろう。
言えぬのは、口止めされておるからだ。
誰にだ。あの若い王に?だが、そのようなことをする者には見えぬ。
もしくは、そうせざるを得ない、のか。
だが一つ分かったことがある。この男は『止めぬ』ということだ。
*
次に、ベルナールを呼んだ。
「司祭」
「はい」
「わしは、決めた」
「伺います」
「決めること自体は、容易い。受けぬ。国も渡さぬ。ファティマもやらぬ」
「はい」
「だが、わしの心がそれを阻む。明日にはまた、恐らく揺れておろう」
「……」
「条件が届いた日からずっと揺れておる。ゆえに、決めた」
*
「この弱き心を、殺す」
*
司祭は、しばらく黙っておった。それから、膝を折った。
「カルロス陛下。一つだけ、お伺いいたします」
「申せ」
「起き上がられたのち、その忠誠をエリアス陛下に捧げるお覚悟が、おありですか」
*
わしは、そこで初めて詰まった。
考えていなかった。死ぬことばかり考えて、そのあとのことを考えていなかった。
この司祭は、わしの前で嘘をついたことがない。
「エリアス陛下は、セフォーを欲しがっておられませぬ」
「まことか」
「まことにございます。エイブラム殿は、いま誰の指図で動いておられますか」
わしは、答えられなんだ。
「王位を退かれるのであれば、縛られるのはカルロス陛下おひとりにございます」
「いま退く気はない。二国を退けてからだ。ファティマに、重いものを先に渡すわけにはいかぬ」
「ご立派にございます」
「司祭。本当に、死したのち、わしは戻れるのだな」
「はい、しかと」
*
司祭は、そのあと一つだけ、妙なことを言った。
「カルロス陛下。このことは、エリアス陛下にはお伝えになりませぬよう」
「なぜだ」
「あの方は、お優しいゆえ」
それだけだった。わしには、意味が分からなんだ。
分からなんだが、覚えた。覚えたことは忘れぬ。頭だけはあるのだ。
その夜、瓶を出して卓に置いた。
あの不愉快な使者が置いていってから毎日、目にしている。
*
今夜は、少しだけ小さく見えた。




