表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白王と黒王  作者: ブルースライム
第1章:ヴィタリス王国 王都

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/78

第13話:誰も眠らない

 昼までに、六十枚ほど押した。


 橋。井戸。街道。堤。堰。倉。どれも申請が出てから十年、二十年と経っているものだった。中には三十四年前のものもあった。


 アンリさんは一度も書類を見ずに数字を言った。どの村に何人いて、どの道が雨で何日潰れて、去年の麦がどれだけ穫れたか。私が聞くたびに、間を置かずに答えが返ってきた。


 私は途中で、聞くのをやめた。


 聞けば答えが返ってくることが分かったからだ。分からないのは私のほうで、この人はもう全部知っている。私が聞くのは、時間を使わせるだけだった。


「アンリさん」


「はい」


「全部、覚えているんですか」


「読みましたので」


「いつ」


「四十年かけて」


 その言い方に、自慢は少しもなかった。何かを説明するときの、事務的な調子だった。


「四十年読んで、直さなかったんですか」


 私は言ってしまってから、まずいことを聞いたと思った。


 アンリさんは、次の紙を取った。


「直せませんでした」


「なぜ」


「橋を一つ直せば、その分をどこかから取らねばなりません。取られた場所で人が飢えます。飢えれば人が死にます」


 紙を私の前に置いた。


「今は、飢える者がおりません」


 私は印を押した。


     *


 その日、私は二百枚を超える紙に印を押した。


 夕方には手首が痛くなって、アンリさんが布を巻いてくれた。巻きながら、この人は一つも書類を落とさなかった。左手だけで束をそろえ、順序を保っていた。


 窓の外が暗くなった。


「もう遅いですね」


「はい」


「休みましょう。アンリさんも、寝てください」


「かしこまりました」


 その返事に、なぜだか少し引っかかった。


     *


 夜中に目が覚めた。


 寝台が広すぎるせいだと思った。森では、寝返りを打てば壁か石に当たった。ここには何もない。


 水を飲もうと思って、部屋を出た。


 廊下に人が立っていた。朝と同じ女の人だった。


「まだ起きているんですか」


「はい」


「もう夜中ですよ」


「はい」


 私は厨房へ向かった。案内はいらないと言ったが、その人はついてきた。


 階段を下りる途中、下の階を見た。


 灯りがついていなかった。


 それなのに、人がいた。


 大広間に、二十人ほどが立っていた。暗闇の中に、朝と同じ位置で、朝と同じ姿勢で。誰も喋っていない。誰も動いていない。灯りをつける必要がないから、つけていないのだった。


 私は手すりを掴んだまま、しばらくそこにいた。


 厨房へ行った。


 厨房にも人がいた。竈の前に三人、洗い場に二人。火は落ちていた。何も作っていない。何も洗っていない。ただ、そこにいた。


「水を」


 と私が言うと、一人が水差しを取って注いでくれた。動きは滑らかだった。眠そうな顔をしている者は一人もいなかった。


 私は水を飲んだ。


 水は冷たかった。誰かが井戸から汲みたてを運んだのだ。真夜中に、誰にも頼まれずに。


 城を回った。


 廊下にも、階段にも、玄関にも、中庭にも、人がいた。数えていくうちに、数えるのをやめた。指の数を超えるとよく分からなくなる。


 誰も寝ていなかった。


 六万人が暮らす街の、いちばん大きな建物で、寝ているのは私一人だった。


     *


 部屋へ戻る途中、一つだけ灯りのついた部屋があった。


 扉が細く開いていて、そこから光が漏れていた。私は覗いた。


 クロエさんだった。


 椅子に座って、壁のほうを向いている。膝の上で手を組んで、じっとしていた。蝋燭が一本、卓の上で燃えていた。


「クロエさん」


 返事はなかった。


 私は中に入って、その正面に回った。目は開いていた。私を見てはいなかった。


「眠れないんですか」


 クロエさんの喉が動いた。


 声は出なかった。


 私はしばらく待った。それから、蝋燭が短くなっているのに気づいて、新しいのを卓に置いた。


「朝ごはん、ありがとうございました」


 私は言った。


「おいしかったです」


 クロエさんは、瞬きをした。


 その一回だけを、私は見た。


 この人は瞬きをする。この人は眠る。この人は食べるし、疲れるし、旅の途中で座り込んだ。


 寝ているのは私一人だと、さっき思ったばかりだった。


 二人だった。


 だから私は、この人のことだけを心配していればいいのだと思った。ほかの人たちは、みんな元気そうだったから。


     *


 部屋に戻って、寝台に横になった。


 天井が高かった。


 みんな、働きすぎだ、と私は思った。


 夜まで立っている。灯りもつけずに持ち場にいる。誰も休めと言われていないから、休まないのだ。私が言わなくてはいけない。


 明日、休みを作ろう。


 全員に、順番に。畑の者も、城の者も、兵も。誰も咎めないから安心して休んでほしいと、そう伝えよう。


 そう決めたら、少し眠くなった。


 私は目を閉じた。


 城のどこかで、誰かが立っている音が、しないままだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ