第13話:誰も眠らない
昼までに、六十枚ほど押した。
橋。井戸。街道。堤。堰。倉。どれも申請が出てから十年、二十年と経っているものだった。中には三十四年前のものもあった。
アンリさんは一度も書類を見ずに数字を言った。どの村に何人いて、どの道が雨で何日潰れて、去年の麦がどれだけ穫れたか。私が聞くたびに、間を置かずに答えが返ってきた。
私は途中で、聞くのをやめた。
聞けば答えが返ってくることが分かったからだ。分からないのは私のほうで、この人はもう全部知っている。私が聞くのは、時間を使わせるだけだった。
「アンリさん」
「はい」
「全部、覚えているんですか」
「読みましたので」
「いつ」
「四十年かけて」
その言い方に、自慢は少しもなかった。何かを説明するときの、事務的な調子だった。
「四十年読んで、直さなかったんですか」
私は言ってしまってから、まずいことを聞いたと思った。
アンリさんは、次の紙を取った。
「直せませんでした」
「なぜ」
「橋を一つ直せば、その分をどこかから取らねばなりません。取られた場所で人が飢えます。飢えれば人が死にます」
紙を私の前に置いた。
「今は、飢える者がおりません」
私は印を押した。
*
その日、私は二百枚を超える紙に印を押した。
夕方には手首が痛くなって、アンリさんが布を巻いてくれた。巻きながら、この人は一つも書類を落とさなかった。左手だけで束をそろえ、順序を保っていた。
窓の外が暗くなった。
「もう遅いですね」
「はい」
「休みましょう。アンリさんも、寝てください」
「かしこまりました」
その返事に、なぜだか少し引っかかった。
*
夜中に目が覚めた。
寝台が広すぎるせいだと思った。森では、寝返りを打てば壁か石に当たった。ここには何もない。
水を飲もうと思って、部屋を出た。
廊下に人が立っていた。朝と同じ女の人だった。
「まだ起きているんですか」
「はい」
「もう夜中ですよ」
「はい」
私は厨房へ向かった。案内はいらないと言ったが、その人はついてきた。
階段を下りる途中、下の階を見た。
灯りがついていなかった。
それなのに、人がいた。
大広間に、二十人ほどが立っていた。暗闇の中に、朝と同じ位置で、朝と同じ姿勢で。誰も喋っていない。誰も動いていない。灯りをつける必要がないから、つけていないのだった。
私は手すりを掴んだまま、しばらくそこにいた。
厨房へ行った。
厨房にも人がいた。竈の前に三人、洗い場に二人。火は落ちていた。何も作っていない。何も洗っていない。ただ、そこにいた。
「水を」
と私が言うと、一人が水差しを取って注いでくれた。動きは滑らかだった。眠そうな顔をしている者は一人もいなかった。
私は水を飲んだ。
水は冷たかった。誰かが井戸から汲みたてを運んだのだ。真夜中に、誰にも頼まれずに。
城を回った。
廊下にも、階段にも、玄関にも、中庭にも、人がいた。数えていくうちに、数えるのをやめた。指の数を超えるとよく分からなくなる。
誰も寝ていなかった。
六万人が暮らす街の、いちばん大きな建物で、寝ているのは私一人だった。
*
部屋へ戻る途中、一つだけ灯りのついた部屋があった。
扉が細く開いていて、そこから光が漏れていた。私は覗いた。
クロエさんだった。
椅子に座って、壁のほうを向いている。膝の上で手を組んで、じっとしていた。蝋燭が一本、卓の上で燃えていた。
「クロエさん」
返事はなかった。
私は中に入って、その正面に回った。目は開いていた。私を見てはいなかった。
「眠れないんですか」
クロエさんの喉が動いた。
声は出なかった。
私はしばらく待った。それから、蝋燭が短くなっているのに気づいて、新しいのを卓に置いた。
「朝ごはん、ありがとうございました」
私は言った。
「おいしかったです」
クロエさんは、瞬きをした。
その一回だけを、私は見た。
この人は瞬きをする。この人は眠る。この人は食べるし、疲れるし、旅の途中で座り込んだ。
寝ているのは私一人だと、さっき思ったばかりだった。
二人だった。
だから私は、この人のことだけを心配していればいいのだと思った。ほかの人たちは、みんな元気そうだったから。
*
部屋に戻って、寝台に横になった。
天井が高かった。
みんな、働きすぎだ、と私は思った。
夜まで立っている。灯りもつけずに持ち場にいる。誰も休めと言われていないから、休まないのだ。私が言わなくてはいけない。
明日、休みを作ろう。
全員に、順番に。畑の者も、城の者も、兵も。誰も咎めないから安心して休んでほしいと、そう伝えよう。
そう決めたら、少し眠くなった。
私は目を閉じた。
城のどこかで、誰かが立っている音が、しないままだった。




