第106話:動かせません
命令が出た。
隊ごと、西の境へ移る。
理由は書いていなかった。
名簿は、前と同じ形で貼ってあった。
ニクラス。二十。回収隊。
前は歩兵と書いてあったところが、そこだけ変わっている。
油の樽は十九のまま運んだ。荷車に積んで、布を掛けた。掛けろと言われたわけではない。誰かが掛けて、そのままになった。
*
三日で着いた。
境は、聞いていたより人が多かった。
柵が新しい。杭の内側に、二重に立ててある。古いほうは色が抜けていて、新しいほうはまだ白い。
斥候が朝と昼と夕に出ていく。前は朝だけだった、そこにいた兵が呟いた。
「西へ出るんだろうなぁ」
別の兵が答えた。
「これだけ集めたんだから、そりゃ出るだろ」
自分は答えなかった。答えられることがなかった。
*
隊は少し離れたところに天幕を張った。
張っているあいだ、通りかかった兵が荷車を見ていった。布の下が何かを聞く者はいなかった。
着いた日に、隊長が一つだけ言った。
「杭を越えてはなりません」
「理由は、何でしょうか」
前の列の者が聞いた。この男はよく聞く。
「命令です」
隊長は、それだけ答えた。
*
四日目の昼だった。
自分は薪を割っていた。焼くための薪ではない。天幕の火に使うぶんである。
声が聞こえた。
人の声ではなかった。馬である。
*
顔を上げたとき、馬はもう杭の外に出ていた。
乗っている者がいた。背が跳ねている。手綱を引いているのか、掴まっているだけなのかは分からなかった。
「オットー!」
誰かがそう呼んだ。
隊の者ではない。境の兵である。柵の内側で、馬を世話していた者たちだ。
*
馬は西へ走った。
途中で二度、向きを変えた。それから、乗っている者だけが落ちた。
馬はさらに走って、少し先で止まった。止まってから、草を食べ始めた。
*
見えるところである。
「オットー!」
動かない。
*
誰かが走り出した。自分も走った。
走ったのは隊の者だけではない。境の兵のほうが多かった。
境を越えたことには、あとで気づいた。
*
オットーは仰向けだった。
目は開いている。こちらを見ていない。上を見ている。
右手が胸の上にあった。自分で置いたようには見えなかった。
足が動いていた。踵が草を掻いている。左だけである。
息をしていた。短く、間が長い。
*
軍医が先に着いていた。
ゲルト軍医。二十六。軍医寮から回されてきた者で、新設の隊の中でも更に新顔だ。
膝をついて、首の下に手を入れていた。入れて、すぐに抜いた。
「おい!担架を持ってこい!」
境の兵の一人が言った。
「板でいい!戸板でも構わん。すぐに運ぶぞ!」
ゲルト軍医は言った。
「動かせません」
「何を言っている!」
「首です」
「首がどうした!」
「折れています」
「だから運ぶんだろうが!」
「動かせば死にます」
*
兵は、怒りの形相でオットーの肩の下へ手を入れようとした。
ゲルト軍医がその腕を掴んだ。
掴まれた兵のほうが背が高く、腕も太い。しかし振りほどけなかった。
オットーの足は、まだ動いていた。
自分はそれを見ていた。
生きている、と思った。
*
誰かが西のほうを指した。
遠くに人が立っていた。数は分からない。動かない。
こちらを見ている。近づいてはこない。
*
隊長は、最後に来た。
走ってこなかった。
*
「回収隊のハルトマン隊長、ですね」
境の兵の一人が言った。
「西の兵が見えます。戻りましょう」
隊長は答えなかった。
答えずに、オットーの足を見ていた。動いているほうの足である。
*
「軍医殿」
「はい」
「どれほどですか」
「長くは持ちません」
*
「東へは」
「動かせません」
*
隊長は杭のほうを見た。
杭は、走ってきた分だけ遠い。
それから、こちらを見た。
「薪を集めなさい」
*
誰も動かなかった。
「薪を集めなさい」
同じ言い方だった。一度目と、少しも違わなかった。




