第99話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「しばらくお待ちいただけますか? すぐに迎えが参りますゆえ」
「承知いたしました」
奇稲田姫様の温かいもてなしに甘え、ディオニュソス様は藩邸の畳の上でしばし休息をとることとなりました。
奇稲田姫様は台所へ立つと、手際よく小さなお皿をいくつか盆に載せて戻ってきました。
「お迎えが来るまで、ほんの退屈しのぎですが、どうぞ」
畳の上に置かれたのは、出汁の染みたおから、茄子のオランダ煮、そして小さなガラスの器に注がれた、無色透明な液体です。
ディオニュソス様は不思議そうに目を細め、まず小鉢を取り口へと運びます。
しっとりとした大豆の旨味と、上品な薄味がじんわりと広がりました。
「なっ……なんですか?! この酒と食べ物は?!」
葡萄酒の神は、驚愕のあまり目を大きく開きました。
「テセウスが私に振る舞ったスープにも驚きましたが、この食材は、その遥か上をいく……!」
続いて、恐る恐るガラスの器を持ち上げ、その透明な液体を唇に浸しました。
自らの司る葡萄酒の、あの濃厚な赤や黄金色の輝きとは全く異なる、清水のような佇まい。
しかし、喉を通った瞬間に、米のふくよかな甘みと、果実を思わせる清々しい香りが鼻腔を爆発的に駆け抜けます。
「そしてこの透明な酒……ああっ……なんと芳醇な……!」
ディオニュソス様は、器を見つめたまま固まっていました。
葡萄の果汁を寝かせる自分の理とは全く違う、穀物からこれほどの華やかさと深みを引き出す日の本の技術。
その調和の前に、酒の神としての自負が心地よく揺らいでゆきます。
奇稲田姫様は、その様子をふふっと嬉しそうに見守っていました。
「アリアドネちゃんも日の本のお酒やお食事をすごく気に入ってくれて、天照様やイザナミ様と本当に楽しそうにしてました。
ディオニュソス様が来られてびっくりさせたいと張り切っているかもしれませんね」
奇稲田姫様は、思い出すようにふふっと微笑みました。
「いやはや……もう充分驚きました……。
テセウスも日の本の食事を絶賛しておりましたが、まさかこれほどとは……」
ディオニュソス様は、まだ余韻の残るガラスの器をそっと畳に置き、白旗を上げるように首を振った。
ただの一杯の透明な酒に、自らの神域を揺るがされるとは思ってもみなかったようです。
その時、藩邸の玄関の方から、静かで行儀の良い足音が近づいてきました。
「ただ今戻りましたー!」
「あら、大国主が来たようですわ。貴方を迎えに来た息子です」
奇稲田姫様が立ち上がると、襖の向こうから穏やかな色気をまとった男神、大国主様が姿を現しました。
「おおっ! そうでしたか。
アリアドネは、こちらにはいらっしゃらないのですね?」
ディオニュソス様は、愛しい少女の影を追うように周囲を見回した。
「はい。ここから少々離れたところにおりますので、ご一緒ください」
大国主様は、ギリシャの酒の神が抱える熱情をすべて察した上で、けして立ち入りすぎない丁寧な礼を尽くしました。
「それでは参りましょうか」とディオニュソス様を促します。
「あっ、大国主や、ディオニュソス様がわざわざお酒をお持ちしてくださったの。
この甕を一緒に持って行っておくれ」
奇稲田姫様は和室の隅に置かれた葡萄酒の甕を見つめ、大国主様に優しく声をかけました。
「はい。承知いたしました、母上」
大国主様は穏やかに頷き、上着の袖を少し気遣いながら、そのずっしりと重い甕を慣れた手つきで持ち上げました。
それを見たディオニュソス様が、慌てて手を振ります。
「えっ? そんなマダム!
貴女にも是非召し上がって頂きたい。何か器はありませんか?」
そういうと、ディオニュソス様は軽く指先を動かしました。
すると床から蔓が伸びてきて葡萄が生るではありませんか。
そしてルビーのように深く澄んだ赤紫色の液体が、さらさらと清らかな音を立てて絞り出され、空中を滑るようにして奇稲田姫様がいそいそと差し出したデキャンタへと吸い込まれていきました。
「まあ! なんて良い香りなのでしょう!」
素戔嗚尊様との現代のデートでワインの味をよく知る奇稲田姫様でしたが、その瑞々しい葡萄の果実味と、大地の生命力をそのまま凝縮したような芳醇な香りに、思わずうっとりと目を細めました。
「お気に召して頂き何よりです」
ディオニュソス様は、自分の司るお酒が日の本の女神にも認められたことに、誇らしげな笑みを浮かべました。
大国主様はその一部始終を静かに見つめながら、心の中で小さく息を漏らしていました。
(ああっ……ギリシャにも、こんなに風雅な方がいらっしゃるのだな……)
七里ヶ浜でのゼウス様の横柄な姿と醜態を見た後だっただけに、大国主様はディオニュソス様の立ち振る舞いの美しさに、ことさら深く感心していました。
「私が京都駅まで車でお送りいたしましょう」
奥の部屋からそう言って、穏やかな微笑みを湛えて現れたのは武甕槌様でした。
その端正な佇まいと、奥底に秘められた凛とした清らかな気配に、ディオニュソス様は足を止めてじっと見つめました。
「貴方からは、我が主神ゼウスの気風を感じますね。雷を扱うのですか?」
「ええ、よくお分かりになりましたね。
私もこの日の本で、微力ながら雷の理を預かっております。
遠いギリシャの最高神と同じ力を宿しているとは光栄です。
不思議なご縁を感じます」
武甕槌様はギリシャから来られた神に興味津々なのだが、天照大神様の客人と聞いて大分遠慮しているようです。
大国主様は「それではお言葉に甘えましょう」と、葡萄酒の甕を大切に抱えて後に続きます。
藩邸の玄関前に静かに停車していたのは、漆黒に美しく磨き上げられた日の本の伝統的な気品を纏った厚な車体でした。
その高貴な佇まいにディオニュソス様は目を細めます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
奇稲田姫様のおばんざいと日本酒の洗練ぶりに早くも白旗を上げつつ、葡萄の蔓から直搾りワインを振る舞うスマートな神技で好感度をカンストさせる酒神ディオニュソス様。いよいよアリアドネちゃんの待つ七里ヶ浜へ向けて出発いたします。
「おばんざいと日本酒に秒で落とされ、父親(ゼウス様)と違って紳士ムーブな酒神、超可愛い」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




