第98話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「イザナミ様、天照大神様、アリアドネ、聞こえますか?」
七里ヶ浜の別荘のリビングに、時空の壁を越えたペルセポネ様の涼やかな声が響き渡りました。
「おおっ!その声はペルセポネ様かえ? その節は世話になったのう。して、どうなされたのじゃ」
天照大御神様が楽しげに声を弾ませて応じます。
「実はテセウスから日の本の話を聞いた神が、是非とも日の本を訪れたいと申しており、ご迷惑でないかをお聞きしようとご連絡いたしました。
ディオニュソスという酒の神が、自慢の酒を持って訪問したいと申しておりますが、いかがでしょうか」
「えっ?!ディオニュソス様ですか?」
アリアドネは目を丸くしました。
ゼウス様に続き、またしても名高い大物の神がこの七里ヶ浜へやって来るという事実に驚きを隠せません。
「ほう。酒の神とな!」
イザナミ様が、手元で空になったグラスをトントンと叩きながら、ふっと口元を艶やかに綻ばせました。
「妾に異存などあるはずないことはご存じであろう。
酒の神が直々に極上の品を携えて参るというのなら、歓迎せぬ理由などどこにもないのう」
お酒という響きにすっかり嬉しそうなイザナミ様の横で「また宴会が盛大になるな……」と素戔嗚尊様が楽しげに笑いました。
大国主様は「では、新しいグラスとおつまみの準備を」と、すでに次の手配のためにテキパキと動き始めています。
「ご快諾いただき感謝いたしますわ。
それではディオニュソスにそのように申し伝えましょう」
ペルセポネ様の弾んだ声が消えると、邸宅の中は、新たな客人、そして未知の極上ワインの到来に向けて、いっそう華やかな活気に包まれようとしていました。
「おおっ!ペルセポネ、有難う御座います!」
ディオニュソス様は歓喜の声を上げ、ペルセポネ様に感謝を捧げました。
その様子を見つめていたペルセポネ様は、ふっと息を漏らし、少し羨ましそうに呟きます。
「良いのう。妾もいつか日の本行ってみたいものだ」
そう言ってペルセポネ様がハデス様をチラリと見ましたが、冥府の主は腕を組んだまま、何も言わずにただ視線を逸らすばかりでした。
その不器用な沈黙に、玉座の間にはどこか微笑ましい空気が流れます。
「さて、それではこの地上に続く坂の脇道に入るが良い。
さすれば黄泉比良坂という場所に通ずるよう妾が道を開こう」
ペルセポネ様の案内に従い、ディオニュソス様は歩みを進めました。
「ほう。こんなところに脇道があったとは」
大切に抱えた葡萄酒の甕を落とさぬよう、いそいそと脇道へ足を踏み入れると、周囲の景色は見慣れぬ道へと滑らかに変貌していきました。
黄泉の国へと繋がる道と聞いて、ディオニュソス様はさぞ陰惨で、おどろおどろしい場所を想像していました。
しかし、かつて天照大御神様がその身に宿る日輪の力で完全に黄泉比良坂を浄化したため、あたりは現世と変わらない温かく柔らかな光に包まれてます。
しかし、完全に現世と変わらない風景というわけでもありません。
道陰には、燃えるような朱色の彼岸花が瑞々しく生い茂り、生と死の境界特有の、ほんのりと湿った厳かな空気が静かに流れています。
「テセウスが言っていたのはここだな?」
葡萄酒の神は、その境界の理を肌で感じ取りながら、一歩一歩、確実な足取りで坂を登っていきました。
足元で揺れる彼岸花を優しくかき分け、光の満ちる方へと突き進みます。
刹那、視界が急に開けました。
肌を撫でる風の匂いが、完全に変わります。
「……おや?」
ディオニュソス様が目を瞬かせると、そこにはさらさらと清らかな音を立てて流れる、美しい川の風景が広がっていました。
ギリシャの乾いた大地とは異なる、湿潤で豊かな緑。等間隔に座って語らう、現世の人間の若者たちの姿。
そこは、日の本の古都、京都鴨川の河原でした。
黄泉比良坂を越え、葡萄酒の神はついに、日の本の土を踏んだのです。
「おおっ……なんと洗練された景観であろうか!」
ディオニュソス様は、さらさらと流れる鴨川の水面と、整然とした美しさに深く感嘆しました。
そして、堤防の上の道路を滑るように通り過ぎていく鉄の獣の群れに目を留め、その美しい瞳をさらに輝かせます。
「そして、これが鉄の獣か! 本当に馬もいないのに走っておる!」
テセウスから事前に仕入れていた知識の答え合わせをするように、葡萄酒の神はいそいそと日の本の光景を楽しんでます。
「おや……そして、ここからただならぬ神気を感じる。
ここが日の本の神々が集う神殿か。
誰ぞおりませぬか?」
河原から少し歩みを進め、たどり着いた重厚な京都藩邸の門。
その佇まいから放たれる清らかな気配に、ディオニュソス様が声をかけると、奥の廊下からパタパタと軽やかな足音が響いてきました。
「はーい。ディオニュソス様ですか? 聞き及んでおりますよー」
現れたのは、奇稲田姫様でした。
素戔嗚尊様から事前に「ギリシャから客人が参るゆえ、頼む」と伝言を受け、笑顔で待っていたのでした。
「おおっ! お待ちいただいていたのですか! これは少ないながら、我が心尽くしです」
ディオニュソス様は、自慢の極上の葡萄酒の甕を恭しく差し出しました。
「あらー!嬉しい!これはワインですか?」
「な、なっ……なんと! この酒をご存じですか!」
葡萄酒の神は、まさか東の果ての神々が、自分のはるか後世の呼び名である『ワイン』という言葉を当然のように口にするとは思わず驚愕しました。
実際のところ、愛妻家である素戔嗚尊様と現代の日本でデートばかりしている奇稲田姫様は、現代の美味しいワインの知識も非常に豊富でした。
しかし、目の前にいるお方はるか紀元前の古代ギリシャから来られた由緒正しき神です。
奇稲田姫様はすぐさまそれを配慮し、ワインというものをお聞きしたことがあります、という初々しい態度で、嬉しそうに甕を受け取りました。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
酒の神の来訪と極上ワインの報せに酒豪たちが歓喜する七里ヶ浜。一方、黄泉比良坂を越えて京都鴨川へと降り立ったディオニュソス様は、お出迎えの奇稲田姫様に至高の葡萄酒を捧げるも、現代デートで舌を肥やした女神の「ワインですか?」の一言に度肝を抜かれております。
「酒豪たちの宴会レーダーが即座に反応してて草」、「ハデス叔父上の不器用な沈黙が尊死」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




