第96話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「――なに? そなた今、なんと申した?!」
ディオニュソス様の手から、葡萄酒の杯が危うく滑り落ちそうになりました。
その顔からいつもの笑みが完全に消え去り、驚愕で目が見開かれます。
「アリアドネだと?! 彼女は日の本にいるのか?」
葡萄酒の神の声音には、隠しきれない動揺と、切実な響きが混ざり合っていました。
テセウスは、ディオニュソス様のそのただならぬ反応に、一瞬だけ驚きを浮かべます。
しかし、比叡山での厳しい修行を経て、あらゆる因果を受け止める度量を身につけた今の彼は、取り乱すことなく静かに頷きます。
「はい、ディオニュソス様。彼女は今、日の本の神々の温かい加護のもとにあります」
「私は、自らの思い上がりがどれほど彼女を傷つけたかを、日の本で思い知らされました。
しかし彼女は……
日の本の圧倒的な愛と、美味しい食事に救われ、健やかな笑顔を取り戻していたのです。
私が日の本で再会した時、彼女は私に『どちら様ですか?』と微笑まれました。
それは、私への清算であり、赦しだったのです」
テセウスの言葉を、ディオニュソス様は息を呑んで聞いておりました。
葡萄の蔦を飾った髪が、海の風に小さく揺れます。
「そう、だったのか……。彼女は、生きて……いや、日の本の神々のもとで笑っているのだね」
ディオニュソス様は、愛おしそうに、そしてどこか切なそうに視線を落としました。
神話の運命の中で、アリアドネという存在に深く心を寄せる因果を持つ彼にとって、彼女の安否と、何より「幸せに笑っている」という事実は、胸を激しく揺さぶるものだでした。
「日の本の神々、か。
ゼウス様を骨抜きにするだけでなく、絶望の底にあった彼女をも救い出すとは……。
一体、どれほど温かく、そして底知れない国なのだろうね」
ディオニュソス様は、アテナイの澄んだ空を見上げ、まだ見ぬ遥か東の島国へと思いを馳せました。
「実は……彼女がナクソス島にいた時だと思うのだが……彼女の祈りが私に届いてね。
島まで赴いたのだよ。
しかし、彼女はもういなかった。
以前よりクレタ島の美しい王女の噂を聞いていて、一目見て私は彼女に恋をしていたんだ」
ディオニュソス様は、自嘲気味な薄い笑みを浮かべながら、ぽつりと溢しました。
その瞳の奥には、神話の時を越えても色褪せない、一途で切ない恋慕の情がはっきりと宿っております。
豊穣の神として無数の宴の中心に立ちながら、たった一人の少女を求めて無人の島を彷徨ったあの日の孤独な記憶が、その声音を微かに震わせました。
それを聞いたテセウスは、誤魔化すことも、言い訳をすることもせず、ただ真っ直ぐに葡萄酒の神を見つめ返しました。
今の彼には、己の犯した大罪を正面から受け止める覚悟がありました。
「ディオニュソス様。
そのお言葉を伺い、私の愚行がどれほど罪深いものであったか、改めて骨の髄まで思い知らされました。
……私が、彼女をあの島へ置き去りにした張本人です」
テセウスは、静かに、しかし断固たる声音で自分の過ちを語り始めました。
「当時の私は、ミノタウロスを討ち取った武勇に溺れ、己が世界のすべてを支配できると思い上がっていました。
クレタ島を脱出し、ナクソス島へ辿り着き、夜陰に乗じて船を出し、彼女を一人、無人の島へ残して逃げ去りました。
我が身勝手な行動が、彼女の心を深く傷つけたのです」
言葉を紡ぐテセウスの拳は、きゅっと強く握り締められていた。
「日の本へ行き、天照大神様をはじめとする神々の圧倒的な神威と、何よりその深い愛に触れた時、私は自分の矮小さを心から恥じました」
「絶望に暮れていたアリアドネを救ったのは、日の本の美味なる食文化と、彼女を包み込んだ神々の温かさです」
「私が彼女に再会し、その謝罪を受け入れてもらったのは、彼女自身の計り知れない成長と寛大さ、そして日の本がもたらした奇跡のおかげに他なりません」
テセウスは深く一礼し、ディオニュソス様に対して心の底からの誠実さを示しました。
ディオニュソス様は、テセウスの告白を、息を詰めるようにして聞いていました。
かつてアテナイを騒がせた略奪王が、ここまで泥臭く、しかし潔く己の過ちを認めるほどの変化を遂げたことへの驚き。
そして、愛するアリアドネが、東の果ての島国でどれほどの絶望から立ち上がったのかという衝撃が、その胸中を激しくかき乱していきます。
「……そなたを殴り飛ばしてやりたい衝動はあるが」
ディオニュソス様は、ふっと息を漏らし、握っていた拳からゆっくりと力を抜きました。
「しかし、今の君の目は、過去から逃げる者のそれではない。
日の本の神々とやらは、これほどまでに男の魂を叩き直すというのか」
葡萄酒の神の視線は、再び、遥か東の空へと向けられました。
そこには、自分の恋い焦がれた少女が、日の本の美味を頬張りながら健やかに笑っている世界があります。
「テセウス、その日の本にはどうやって行くのだ?」
ディオニュソス様は、身を乗り出すようにしてテセウスに問いかけました。
その美しい瞳には、もはやアテナイへの祝福だけでなく、まだ見ぬ未知の東洋、そして何より愛しいアリアドネが生きる世界への、抑えきれない熱情が灯っていました。
テセウスは、葡萄酒の神の真っ直ぐな視線を真っ正面から受け止め、少しだけ考えを巡らせるように顎を引きました。
日の本へ至る道は、通常の物理的な航海で辿り着けるような単純なものではありません。
時空を越え、概念の壁を打ち破るだけの、確かな「縁」と「理」が必要です。
「冥府のペルセポネ様にご相談されるのがよろしいかと思います」
テセウスは、確信を持った声でそう答えました。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
アリアドネの生存と日の本行きを知り、激しく動揺する葡萄酒の神ディオニュソス。一途な恋心を燃やす酒神は冥府経由での「日の本アタック」を決意します。
「元凶を前に拳をグッと堪える酒神に愛されたい!」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




