第94話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
七里ヶ浜の別荘に、牛丼から立ち上る強烈な香りが充満していました。
醤油と砂糖、そして牛肉の脂が熱々の白米に染み込んでいく甘辛い香りは、海の風に乗って鼻腔を容赦なく突きます。
「オリュンポスの王妃たる私に、このような、平民が群がって掻き込むような雑な肉塊を口にせよと?」
ヘラ様は眉をひそめ、目の前に置かれた牛丼(つゆだく生卵セット)を扇子で遮るように眺めます。
日の本のファストフードという未知の存在に対する、本能的な警戒と拒絶。
しかし、その言葉を気にする風もなく、天照大御神様は、すでに生卵をちいさな容器でシャカシャカと小気味よくかき混ぜていました。
「もー、ヘラ様は堅苦しいなぁ!
このツユがね、お米の芯までじゅわっと染み込んでるのが最高なのじゃ!
ほれ、アリアドネちゃんも遠慮しないでいきなさい!」
「はい、天照様! いただきます!」
アリアドネは、かつて箸すら持てなかった頃が嘘のように、慣れた手つきで紅生姜をたっぷりとのせ、七味唐辛子をさらさらと振りかけました。
そして、黄金色の生卵を満遍なく回しかけた肉と米を、箸で豪快に持ち上げます。
口を大きく開けて頬張ると、噛み締めるたびに溢れる旨味に、その瑞々しい頬が信じられないほど幸せそうに緩みました。
「んんーっ……! この、お肉の薄さと柔らかさが、お出汁をこれでもかと吸い上げていて……ご飯が止まりませんわ!」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
イザナミ様もまた牛丼を口へ運び満足げに目を細めました。
「最初は誰もがそう言うものじゃ、ヘラ様。
なれど、この飾らない人の知恵が詰まった一杯は、どんな神の供物よりも五臓六腑に染み渡るのじゃよ」
クツクツと煮込まれた玉ねぎの甘い匂い、紅生姜の酸味混じりの爽やかな香り。
そして何より、目の前の女神たちが、神話の威厳をかなぐり捨てて、ただひたすらに「美味い、美味い」と喉を鳴らしている現実。
ヘラ様の喉が、無意識のうちに小さく、しかし確かに上下しました。ドレスの裾をきゅっと握り締めます。
そこへ素戔嗚尊様が戻ってきました。
その手には、よく冷えたお茶と、すっと差し出された一本のスプーンがあります。
「ヘラ様。箸というものは、慣れぬうちは余計な雑念を生むものだ。これをお使いなされ」
素戔嗚尊様の声は、どこまでも穏やかで紳士的でした。
決して無理強いはせず、しかし逃げ道を優しく塞ぐような絶妙な間合いでした。
「日の本の職人が、一分一秒の戦いの中で、働く民のために磨き上げた至高の結晶だ。王妃の気高き舌で、どうかその真価を確かめてくだされ」
「……そ、そこまで言うのでしたら」
ヘラ様は頬を微かに赤らめ、プライドを必死に維持しながら、差し出されたスプーンを受け取りました。
手元で揺れる、黄金色の卵液が絡みついた薄切りの牛肉。湯気と共に、暴力的なまでの醤油と肉汁の香りが鼻腔を直接殴りつけてきます。
「本当に……一口だけですからね」
観念したように目を閉じ、ヘラ様はその一口を、そっと唇の間へと滑り込ませました。
刹那、彼女の脳内で、何かが音を立てて弾け飛びました。
つゆを極限まで吸い込んだ柔らかな牛肉が、舌の上でほろりと解けます。
噛む必要すら危ういほどの繊細な薄さ。
そこに、醤油とみりん、玉ねぎの甘みが完全に調和した濃厚なタレが溢れ出し、生卵のまろやかさがすべてを優しく包み込んでいきます。
熱々の白米は、その旨味のすべてを逃さず受け止める完璧な器として機能していました。
「――っ!?っ!?」
ヘラ様は目を見開いたまま、言葉が出ません。
これは、時間をかけて煮込まれた宮廷の煮込み料理ではありません。
それなのに、口の中を駆け抜けるこの圧倒的な幸福感と、次の一口を強烈に要求する脳の痺れは何なのでしょうか。
「な、何、これ……お肉が、溶ける……? この、お米に染みた汁の、なんと深く、力強いこと……!
そして……何なのですか、この本能を呼び起こすようなこの香りは……」
上品に口元を隠していたはずの手はいつの間にか下がり、夢中になって二口目、三口目をスプーンで掬い上げていました。
気品溢れる女王の顔が、今はただの、美味さに衝撃を受けた一人の少女のようにはしゃいでいらっしゃいます。
「じゃろ、じゃろ?! ヘラ様も妾達と、この日の本の美味を心ゆくまで楽しむと良い!」
天照大御神様は、自分のことのように嬉しそうに声を弾ませ、冷酒のグラスをちんとヘラ様の丼に軽く合わせました。
「わ……悪くないですわね……! この、手軽さの裏にある計算された味わいは、認めざるを得ませんわ!」
ヘラ様はなおも王妃としてのプライドからツンと顎を引いて強がってみせるものの、その瞳には、次の一口を求める抗えない欲望の光が爛々と湛えられています。
スプーンの手は完全に加速しており、つゆの染みた白米を美しく、しかし凄まじい勢いで口へと運んでいました。
素戔嗚尊様がベランダから運んでくる、醤油が焦げてぷつぷつと泡立つサザエや蛤の香ばしい潮の匂い。
大国主様が「はいはい、お次はお肉によく合う炭酸の水割りですよ」と、お盆をテキパキと回す居酒屋の店員さんのような小気味よさ。
アリアドネが「明治の剣客ロマン」の推しキャラクターの魅力を熱弁し、イザナミ様が「ほう、その男の生き様、中々に見事じゃのう」と深く頷きます。
七里ヶ浜の美しい別荘には、神話の垣根を遥かに超越した、かしましくも温かい宴の笑い声がいつまでも響き渡っていました。
一方その頃、時空の彼方、古代オリュンポスの神殿――。
「……はあ。まさか、ヘラがあれほどまでに美しかったとは……」
ゼウス様は、豪奢な玉座に深く腰掛け、気の抜けたようなため息を漏らしていました。
日の本の天照大御神様の手によって、現代の洗練されたコスメと極上のドレスを纏ったヘラ様の姿。
別人かと見紛うほどの圧倒的な気品と、妖艶でいて凛としたあの美貌が、脳裏に焼き付いて離れません。
すっかりヘラ様にゾッコンになり、骨抜きにされてしまった最高神は、未だにその衝撃の余韻の中で呆然と天を仰いでいました。
しかし、そのゼウス様の統治の足元で、一つの国が確実な変革の音を立ててます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
最初は「平民の雑な肉塊」と突っぱねるも、つゆだく生卵の暴力的な旨味に秒で陥落したヘラ様。一方オリュンポスでは全能神が虚空を見つめております。
「ツンデレヘラ様も予定調和」、「牛丼スプーンで食いたくなった」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




