第70話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
ゾクッ……!!!
テセウスの屈強な背中に、凍りつくような冷たい汗が一気にいくつも走り抜けました。
全身の筋肉が瞬時に硬直を受け、指先一つ、視線一つすら動かすことができず、その場に縫い付けられたように身動きが取れなくなってしまったのです。
(なっ……なんだ?! 何が起こった?!
いや……この、魂の根源を直接圧殺されるような絶対的な感覚は……
あの夜の黄泉と冥府の境目で経験した……
あの、本当の『死』という恐怖の感覚だ……!!)
服が冷や汗で一瞬にして濡れ、テセウスは呼吸すら看守されたかのような絶望の暗闇に包まれます。
彼を片手で吊るし上げ、アトラスの如き圧倒的な質量で恐怖のどん底に叩き落とした、あの闘神・素戔嗚尊様の神気が、今まさに彼のすぐ背後から、一切の容赦なく静かに立ち上っていたのです。
テセウスは後ろを振り向かぬまま、丸の内の冷たいアスファルトの上へ静かに跪きました。
リュックを背負ったその背中は、かつての傲慢な王のそれではなく、己の罪と小ささを完全に受け入れた、真の騎士の佇まいでした。
「すっ、素戔嗚尊様と拝察いたします。
京都では……誠にお恥ずかしいことを、そしてご無礼をいたしました。
あなた様方が大切に庇護されているアリアドネ様を傷つけました!
どうぞ、ご処断をお下しください!」
言い訳も、命乞いも一切ない。
一年の試練と日の本の旅を経て磨き上げられた、その清廉潔白にして見事な覚悟の答え。
その漢の気骨を正面から受け止めた素戔嗚尊様は、それまで周囲の空気を凍らせる程度に軽く放っていた闘神の殺気を、スッと封じ込められました。
皇居前の行幸通りに、元の穏やかな夕暮れの風がふわりと戻ります。
「ふむ。良い、こちらを向け」
「はっ、ははあー!」
テセウスは深く顔を伏せたまま、膝をついた状態で素戔嗚尊様の方へと向き直りました。
その平伏する姿を見下ろす素戔嗚尊様の瞳には、もうテセウスを害するつもりなど毛頭ありませんでした。
過ちを深く悔い、日の本の文化や歴史を泥臭く学び、見事なまでの「真の王」へと立ち直った一人の男として、その成長を完全に認めていらっしゃったのです。
「まあ、そんなしゃちこばるな。お前の旅路は、全て見ていた。素晴らしい気づきがいっぱいあっただろう」
素戔嗚尊様はポケットに手を入れ、男らしく、そしてどこまでも頼もしい笑顔をテセウスへと向けられました。
その頃、七里ヶ浜の邸宅では――。
画面を通じてテセウスのあまりにも清廉な謝罪と、素戔嗚尊様の極上の紳士的なエスコートを見届けていたアリアドネは、瞳に涙をいっぱいに溜めていました。
「テセウス様……本当に、本当に立派な為政者になられましたのね……っ」
今度はやきもちではなく、かつて自分が愛した英雄が真の優しさと強さを手に入れたことへの、心からの安堵と誇らしさで胸をいっぱいにしています。
「まこと見事な覚悟じゃ! 素戔もあやつを一人前の男として認めたようじゃな!」
天照大御神様が嬉しそうにビール缶を掲げます。
イザナミ様も「ふふ、これでアテナイの未来も泰平じゃのう。
アリアドネちゃん、そなたの慈悲が勝ったのう」と笑みを浮かべて寄り添っていらっしゃいます。
「ほら、車は分かるな? 俺の横に乗れ。荷物は後ろのトランクに入れておくがいい」
素戔嗚尊様が車のドアを開けて促します。
「はっ……ははっ! そっ、その、誠に恐縮です!」
テセウスは恐れ多さに全身を震わせながらも、教わった通りに大きなリュックをトランクへと収めました。
「もういいって。ほら、これでも飲んでリラックスしろ!」
運転席に乗り込んだ素戔嗚尊様が、保冷コンテナから取り出したキンキンに冷えた「ハイボール」の缶を、助手席のテセウスへと手渡します。
「はっ、頂戴いたします……!」
プシュッ、と心地よい音を立てて一口。
ウイスキーの気高き芳醇な香りと炭酸の爽快な喉越しが、テセウスの喉を駆け抜けます。
この旅で人生の苦味を覚えた彼にとって、このハイボールの洗練された味わいは、まさに乾いた魂に染み渡る極上の救いでした。
重厚なエンジン音が丸の内の摩天楼に響き渡り、車は滑らかに走り出します。
車内を流れる心地よい音楽と極上のシートの座り心地に、テセウスの張り詰めていた緊張が、少しずつ解きほぐされていきました。
「しかし、お前、その若さで王に上り詰めたんだって? 大したもんじゃねえか」
素戔嗚尊様がハンドルを握りながら、一人の男として、そしてかつて国を統べた英雄としての戦理を交えて気さくに語りかけます。
「いや、本当にお恥ずかしい限りで。この旅で、あなた様方が下さった機会で、己の矮小さを深く理解いたしました……」
「そうか。けど、日の本の飯は美味かったろう?」
その問いかけに、テセウスは服の胸を張り、瞳に真っ直ぐな光を輝かせました。
「はいっ! それはもう……!
行くところ行くところ、全ての食事が信じられぬほど美味く、まずい飯など、この日の本には存在しないのではないかとすら思ってしまいます!」
「ははっ! そうかい! そりゃ何よりだ! 俺たちの愛する食文化をそこまで褒めてもらえると、日本人冥利に尽きるぜ!」
素戔嗚尊様は豪快に笑い、二人の間には、かつての鴨川の殺気など微塵も残らない、本物の漢同士の通じ合う会話が流れていきました。
親子丼、近江牛、カレー、胡椒たっぷりの手羽先、ソフトクリーム、三島のコロッケ、そして老舗うなぎ屋さんの櫃まぶしとうな茶――。
テセウスが泥臭く歩いて集めた日の本の美味の記憶を、素戔嗚尊様は一つ一つ優しく頷きながら聞いてくれたのです。
そうして美味い飯の話に大いに花を咲かせながら、夕暮れの湾岸道路を滑るように駆け抜けた車は、ついに潮風が優しく香る七里ヶ浜の邸宅へと到着しました。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
ようやく東海道の旅を終えたテセウス、B級グルメ談義に花を咲かせながら七里ヶ浜へ凱旋です。
「スサノオ様の助手席はハイボール5、6杯は飲まないと精神が持たない」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




