第7話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「なんと……まぁ……。妾は本当に、空の上に来てしまったのじゃな……」
イザナミ様は、窓に美しく瑞々しい顔を近づけ、その白銀の絶景に魂を奪われたように目を細めました。
黄泉の国で何千年も見ることのなかった「光」の極致が、そこにはありました。
アリアドネもまた、自分がかつていたクレタ島の大迷宮の闇も、ナクソス島で味わった裏切りの孤独も、すべてがこの遥かなる白銀の海の下へと消え去っていくような、不思議な解放感を覚えていました。
鉄の鳥への恐怖はいつしか消え去り、二人はただただ、現世の空が見せる奇跡のような美しさに、静かに見惚れ続けていたのでした。
美しい雲海に魂を奪われ、ガラス窓にぴったりと張り付いて釘付けになっているイザナミ様とアリアドネ。
そんな二人を微笑ましそうに眺めながら、素戔嗚尊様はふっとシートの呼び出しボタンを押しました。
やってきた客室乗務員(CA)に向かって、彼は現世の男さながらに手慣れた様子で注文を通します。
「コニャックの水割りを、2人分頼む」
その渋い声を聞き逃さなかったのが、隣にいた天照大御神様でした。美しい眉をぴくりと動かし、不満げに弟を睨みつけます。
「……ちょっと、妾のは?」
「えっ? 姉貴、お前あの2人を案内するんだろ? お前が飲むのかよ」
素戔嗚尊様が当然のように突っ込むと、天照大御神様はふん、と鼻を鳴らして胸を張りました。
「何を言うか! 案内するのはそなたじゃ! 妾は今日、エスコートされる側なのじゃ!」
「わかったよ、わーかったよー……。すいません、じゃあコニャックの水割りを3つね」
素戔嗚尊様が苦笑いしながらCAに注文を訂正すると、天照大御神様はなおも指を突きつけて、弟にぴしゃりと釘を刺します。
「そなた……妾はあくまでエスコートされる側だということを、しっかりと肝に銘じよ!」
「へいへい、肝に銘じましたよ、主神様」
そんな姉弟の軽妙なやり取りが交わされる中、やがて極上のコニャックが運ばれてきました。
美しいクリスタルグラスの中で、琥珀色のお酒がカラリと氷の音を立てます。
窓の外に広がる白銀の雲海、そして手元には、現世の人間たちが洗練させた芳醇な香りのお酒。
イザナミ様もアリアドネも、素戔嗚尊様から手渡されたグラスをそっと傾け、その温かく気高い味わいに再び深く息を吐きました。
黄泉の闇から解き放たれた大母神、裏切りの絶望から救い上げられた異国の王女、そして彼女たちを優しく包み込む日の本の主神。
三柱の女神たちは、グラスを合わせながら、心から現世の空の旅を楽しむことができたのでした。
大空の旅を終え、鉄の鳥は静かに滑走路へと滑り込み、ついに日本の中心である「羽田空港」へと到着しました。
飛行機の扉が開き、素戔嗚尊様に促されて一歩外へ踏み出したイザナミ様とアリアドネをまず出迎えたのは、どこまでも続く巨大な建物の空間と、ガラスと鉄骨が織りなす洗練された近代的な佇まいでした。
あちこちで眩いばかりの人工の光が輝き、数え切れないほどの人々が行き交うその光景は、古代ギリシャにも、ましてや神々の高天原や黄泉の国にも存在しないものでした。
「なっ……なんという威容じゃ……。ここは本当に日の本なのかえ!?」
イザナミ様は、空港の出口で完全に足を止め、呆気に取られたように周囲を見回しています。
かつて自らが国作りに携わった日の本が、時を経てこれほどまでに巨大で、眩しい文明の都へと変貌を遂げている事実に、大母神としての魂が激しく揺さぶられていました。
一方、アリアドネはといえば、もはや自分の頭の理解の範疇を遥かに超えた異世界の光景に、完全に言葉を失っていました。
大迷宮の闇も、ナクソスの砂浜も、この圧倒的な現代の輝きに比べれば、まるで遠い夢の彼方の出来事のようです。
「あ、あの……これは……っ」
彼女はもはや意味不明とばかりに、天照大御神様の細い腕にぎゅっとしがみついたまま、一歩一歩おずおずとゲートを通り抜けていきます。
その表情は困惑に染まっており、信じられないものを見るかのように、ただただ目をくるくると丸くして驚き続けていました。
そんなアリアドネを、天照大御神様は「ふふっ、びっくりしたかえ?」と、愛おしそうに優しくポンポンと叩いてなだめておられました。
羽田空港の賑やかなロビーへと向かいながら、天照大御神様はすっかり上機嫌で、弟の素戔嗚尊様を振り返りました。
「さて素戔よ。これからどうするのじゃ?」
完全にすべての進行を弟へ丸投げする気満々のご様子です。
素戔嗚尊様は苦笑いしながら「わかってるよ! ちょっと待っててくれ」と言い残し、一瞬だけ人混みの奥へと姿を消しました。
しばらくすると、ロビーの外の乗降口に、重厚な輝きを放つ異国のセダンが静かに横付けされました。
「なに?」という顔でその鉄の馬車を見つめる三柱の女神たちの前に、運転席から一人の男が降りてきます。
「よっ、お待たせ!」
現れたその姿に、女神たちの時間がぴたりと止まりました。
そこにいたのは、先ほどまでの荒々しい出雲の神の衣を脱ぎ捨て、仕立ての良い上質なモダンな今風のスーツを完璧に着こなした素戔嗚尊様だったのです。
洗練された都会の雰囲気をまといながらも、持ち前の逞しい巨躯がより一層の気品を際立たせていました。
三柱の女神たちは、その都会慣れした紳士を「えっ……!?」という驚愕の顔で見つめたまま、しばらく言葉も出ません。
素戔嗚尊様はそんな視線を気にも留めず、スマートにドアを開けて「ほら乗った乗った!」と促します。
イザナミ様とアリアドネは、最高級の革の香りが漂う後部座席のラグジュアリーなシートへと滑らかに案内されました。
そして素戔嗚尊様は、天照大御神様を助手席へと案内しようと、ドアを開けてエスコートの姿勢を取ります。
その完璧すぎるおもてなしに、天照大御神様はついに限界を迎えてしまいました。
「なっ……なんなんじゃ主は?! すっ……素戔のくせに、生意気じゃーーーっ!」
天照大御神様は顔を真っ赤にして身悶えしながら、素戔嗚尊様の肩をポカポカと拳で猛烈に殴り始めます。
「きっ、貴様! 昔、昔!妾の神聖な高天原の御殿で、うんこを垂れ散らかして嫌がらせをしおったあの粗暴な奴が、なんでこんなスマートな真似ができるのじゃーーーっ!?」
過去のあまりにも強烈な黒歴史を大声で暴露され、素戔嗚尊様も大慌てで頭を抱えました。
「あーーっ、姉貴! なんで今、こんな大衆の真ん中でそんな大昔のことをバラすんだよ?! やめろって!」
羽田空港のきらびやかな玄関口で、日の本の最高神が本気の姉弟漫才を繰り広げる光景。
後部座席の窓からその様子をじっと見ていたアリアドネは、そのあまりの賑やかさと人間らしさ(神様らしさ?)に、張り詰めていた心がすうっと解けていくのを感じていました。
テセウスの裏切りの傷も、異世界への恐怖も、このおかしな姉弟の前ではどこか遠いことのように思えてきます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
羽田空港に到着した途端、天照大御神様による、超弩級な黒歴史大暴露が炸裂。
「スサノオ様スーツの袖破けないの?」、「羽田のど真ん中でうんこ事件暴露は流石に不憫すぎて草」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




