第56話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「……これは!
俺の直感が、ここで一度降りて、この街をその目で見てみなければならないと告げている!
この覇者の気配が残る街を素通りすることなど、一人の戦士として絶対にできん!」
新幹線が「まもなく、名古屋です」と静かにアナウンスを流す中、テセウスはICカードをぎゅっと握りしめ、新幹線の旅を一時中断して名古屋駅で途中下車することを固く決意しました。
その頃、七里ヶ浜の邸宅では――。
天照大神様の細工を通じ、テセウスが「織田信長……! 覇者の街……!」と目を血走らせて名古屋駅のホームに降り立とうとしている熱い戦士の思念がリアルタイムで届いていました。
案の定、これを受信したアリアドネの、最高に面白おかしい理不尽な悶絶が再びリビングで大爆発します!
「キィィィーーーッ!!! な、なんですのその熱い展開はーーーっ!?
東京へ向かうと言っておきながら、のぶなが、という格好いい覇王の名前に釣られて、
名古屋で途中下車してしまいましたわーーーっ!!」
アリアドネはリビングの絨毯の上で激しくゴロゴロとのたうち回っています。
「悔しいですわ! 悔しすぎますわ!
わたくしたちがこの前までいたあの名古屋に、テセウス様が今まさに降り立とうとしているなんて、
カブトムシのくせに自由奔放すぎますわーーーっ!!
しかも、なんだか一人の男としてすごく格好いい決意の顔を崩さないのが、テセウス様のくせに生意気ですわーーーっ!!」
と地団駄を踏みながら悔しがるアリアドネでした。
名古屋駅のホームから一歩改札へと向かったテセウスを、想像を絶する衝撃が襲いました。
ちょうど夕方の通勤ラッシュの波にぶつかったのです。
駅のコンコースを埋め尽くし、寸分の狂いもなく一方向へと流れゆく無数の人々の波。
それは、彼がかつてギリシャの戦場で目にした、いかなる軍勢の威容をも遥かに上回る数でした。
「いっ、いかぬ! 私がこの大群に心を折られそうだ。ガイドブックが示すシティホテルとやらに一旦避難だ!」
さすがは百戦錬磨の英雄テセウス。
本能的に「多勢に無勢」という戦理を感じ取り、瞬時に撤退戦へと切り替えました。
駅直結のホテルへと滑り込み、部屋の鍵を閉めてようやく深く息を吐き出します。
「ふう……。我が敵というわけではないのだろうが……あの人の波はいかぬ。簡単に我の心を折りそうであった」
現代日本の大都市の人口密度に冷や汗を流しつつも、人心地がつくと今度は強靭な胃袋が主張を始めます。
ガイドブックを開いた彼は、覇王信長の街が誇る傑作B級グルメのページに目を留めました。
「腹も減ったし、この手羽先が美味なる店に行ってみよう」
夜の名古屋の街へと繰り出し、活気溢れる店内の暖簾をくぐります。
そこには、一日の戦いを終えて幸せそうにビールを煽る現代の企業戦士たちの熱気と喧騒が満ちていました。
テセウスは周囲を観察しながら、静かにカウンターの席へと腰を下ろします。
(ふむ……。あの若き者たちは文官なのであろうか。
アテナイの戦略家や元老院たちですら分からぬであろう、緻密な戦略と叡智の議論を交わしておる。
流石は覇王信長公のおわした街というところか……)
実際はサラリーマンたちが居酒屋で「明日の営業戦略」や「プロジェクトの進捗」について熱く語り合っているだけなのですが、テセウスの脳内ではそれが「国家レベルの高度な軍事会議」に見えていました。
そんな間違っているとも正しいとも言えない微妙な思索が脳内を駆け巡る中、ついに目の前に山盛りの「手羽先」と、キンキンに冷えたビールの大ジョッキが運ばれてきました。
「ふふっ、先ずはこれよな!」グビッ、グビッ、グビッ……。
「ぶはぁっ! うむっ!やはり 美味い!」
まずは五臓六腑を潤す金色の麦酒を豪快に流し込み、独特のタレを纏った手羽先へと手を伸ばします。
教わった通りに身をパクリと口に含んだ瞬間、強烈な刺激が舌を貫きました。
「この黒い粒々は……まっ、まっ、まさ……か……、かっ辛いっ!
しかし、紛れもなくこれは『胡椒』!
我が国ではほんの一握りで城が立つと言われる、あの最高級の香辛料だぞ!?
私は……まさか、このICカードの中身が一食で全て消し飛ぶほどの禁忌のメニューを頼んでしまったのか!?」
古代ギリシャにおいて、東方から極僅かにもたらされる黒胡椒は、同じ重さの金と等価で取引されるほどの超高級貴重品。
それがこれでもかと皿にぶちまけられている現実を見て、テセウスは「やってしまったか?!」と顔面を蒼白にします。
しかし、恐る恐る横の席を見渡すと、若き文官たちが、何のお咎めもなく、胡椒だらけの手羽先を「これこれ! この胡椒が最高なんだよ!」と笑顔でバクバクと何皿も貪り食っていました。
「むうーーっ、どうやらこの国では、あの胡椒すら庶民の食べ物らしい……。なんという、なんという恐ろしい国なのだ……」
財力と物流の桁違いのスケールに底知れぬ恐怖を覚えつつも、その見当違いの美食談義を脳内で奏でながら、一度食べたら止まらないスパイシーな美味さに打たれ、「美味い! 美味い!」と涙を流して手羽先を骨まで綺麗に平らげていくテセウスでした。
そして、七里ヶ浜の邸宅では――。
テセウスが「胡椒の山で城が立つ!」「サラリーマンはエリート文官!」と盛大に勘違いしながら、胡椒たっぷりの手羽先の山を前に目を丸くして大号泣している敬虔な思念がリアルタイムで届いていました。
当然、そのカブトムシの突飛な行動を見たアリアドネが、黙っていられるはずがありませんでした。
アリアドネの、最高に面白おかしい理不尽な悶絶が七里ヶ浜のリビングで再び大炸裂します!
「キィィィーーーッ!!! な、なんですのその『胡椒』の無駄遣いはーーーっ!?
一握りで城が立つと言われる幻の香辛料を、そんなにドバドバぶちまけた食べ物があるなんて、
聞いていませんわーーーっ!!」
アリアドネはふかふかの絨毯の上を、やきもちを天元突破させた勢いでゴロゴロと激しくのたうち回っています。
「悔しいですわ! 悔しすぎますわ!
わたくしたち、名古屋ではお腹を優しく整えるために『みそにこみうどん』を選びましたのに、
テセウス様のくせに、わたくしが食べられなかったあの美味しそうな『てばさき』なるお肉を、
そんな歴史的な贅沢とともにバクバク食べているなんて、ずるいですわーーーっ!!」
テセウスが自分より先に「城が立つほどの香辛料まみれの極上肉料理」に出会い、しかもサラリーマンを「エリート文官」と崇めながら魂を洗練させている姿への理不尽な嫉妬。
「わ、わたくしだって、今すぐあの胡椒たっぷりのお肉を食べたいですわ!
素戔嗚尊様! この七里ヶ浜という素晴らしい地に、あの手羽先のお店を今すぐ時空転移させてくださいましーーーっ!!」
いつもご愛読いただき有難う御座います。
「居酒屋のサラリーマンはエリート文官」、「手羽先の胡椒で城が立つ」と盛大に勘違いをするテセウス。そして、スサノオ様に「手羽先屋を時空転移させろ」と無茶振りするアリアドネちゃんでした。
「胡椒にビビる今のテセウスにならいくら吹っかけてもしぶしぶ払うぞ」、「アリアドネのお嬢ちゃまっぷりが某社長令嬢化してる」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




