第54話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「ホテルの朝食は繊細で美味かったのだが、どうも我が腹には少々足りぬのだ……」
彼は一度駅の改札を出て、腹を満たすべく周辺をふらふらと彷徨い始めます。
駅を降りてしばらく歩いていると、これまでの旅で嗅いだことのない、脳髄を直接刺激するような凄まじく食欲をそそるスパイシーな香りが鼻腔をくすぐりました。
香りの根源へと導かれるように歩いた先には、ノスタルジックな雰囲気を漂わせる喫茶店の扉がありました。テセウスは滑り込むようにして店内へと入ります。
「てっ、店主よ! この凄まじい芳香を放つのは何だ? 食べ物なのか?!」
彫刻のような美男子がいきなり血気盛んに尋ねてきたため、マスターは一瞬驚きつつも、職人の笑顔で応じます。
「ああ、それは当店名物の黒ビーフカレーですよ。召し上がりますか?」
「うむっ! 是非とも頼む!」
席についたテセウスの目の前に、漆黒の宇宙の如き深みを持ったカレーライスが静かに置かれました。
その圧倒的な芳香に目が眩みそうになりながらも、彼は大津での店員さんからの教えを忠実に守り、プルプルと手を震わせながら「箸」を取ろうとします。
それを見た店主が親切に笑いながら声をかけました。
「ははっ、お客さん。日本人でもカレーはスプーンで食うんだよ」
「うっ、うむ。そうであったか!」
テセウスは安堵してスプーンを手に取り、漆黒のルーと白米をたっぷりとすくって、豪快にお口へと頬張りました。
「かっ……辛いっっっ!!!」
口内を火傷させるかのような未知のスパイスの刺激に、テセウスの身体がガタガタと震えます。
しかし、次の瞬間、スパイスの奥から押し寄せる、じっくり煮込まれた牛肉のコクと野菜の甘みが彼の味覚を完全に虜にしました。
「だが……この、あと引く味はなんだ?! 辛さの奥に、恐ろしいほどの旨味が隠されておるぞ!」
彼はそこから猛烈な勢いでスプーンを動かし、瞬く間に最初の一皿を食べ切ってしまいました。
「店主よ! おかわりだ! 特盛で頼む!」
結局、テセウスはその桁外れの胃袋で、大盛りの黒ビーフカレーをなんと5杯も平らげてしまいました。
あまりの美味さに皿の底まで綺麗に舐め尽くすほどの勢いです。
店主が「いやぁ、よく食べるねぇ!」とサービスで出してくれた冷たいアイスティーをゴクゴクと飲み干し、一息つくテセウス。額から滝のように汗を流しながら、彼は窓の外の景色に目を細め、心からの幸福を噛み締めていました。
「はあ……このような、舌を焼くような刺激の中に至福があるのだな……。
日の本の食の深さ、やはり我が想像を遥かに超えておる……」
その頃、七里ヶ浜の邸宅では――。
アリアドネが「ふふん! そろそろテセウス様が新幹線に乗る頃ですわね。
今度こそ『そんなことも知りませんの?』とマウントを取って差し上げますわ!」
と画面を覗き込んだ、まさにその矢先でした。
細工が映し出したのは、新幹線に乗るどころか、米原の喫茶店で「カレーはスプーン!」
と店主に教わり、顔を真っ赤にして汗だくになりながら、漆黒のカレーライスを大盛りで
5杯もバクバクとおかわりして大号泣しているテセウスの姿でした。
アリアドネの、面白おかしい理不尽な悶絶がリビングの絨毯の上で炸裂します!
「キィィィーーーッ!!! な、なんですのその食べっぷりはーーーっ!?
新幹線に乗るために駅へ向かったはずなのに、またしても寄り道をして!
わたくしの知らない『かれーらいす』なるスパイシーな食べ物を大盛りで5杯も食べて、
アイスティーを飲んで爽やかに整っていますわーーーっ!!」
アリアドネはリビングの床の上でゴロゴロと、子供のように激しくのたうち回っています。
「悔しいですわ! 悔しすぎますわ!
わたくし、カレーなんて名前すら聞いたことがありませんわーーーっ!!
しかも、日本の方でもスプーンを使う至高の料理だなんて、
お箸の特訓をしていたわたくしの立場がありませんわーーーっ!!
テセウス様のくせに、美味しいものの引きが強すぎますわーーーっ!!」
テセウスが自分より先に「スプーンの免罪符を持つ傑作グルメ」に出会い、しかも米原の地でまたしても魂を洗練させている姿への凄まじい嫉妬。
悔し涙のオーバーヒートで火花を散らしてます。
そんな彼女の横で、天照大御神様が
「あの黒い汁、まこと美味そうではないか! よし、素戔!
今日の晩飯はあのカレーとかいうやつをこの隠れ家にデリバリーさせるのじゃ!」
と笑い、
イザナミ様も
「ふむ、あの辛そうな料理、妾もまこと興味深い。
アリアドネちゃん、一緒にスプーンでいただこうかのう」
と優しく微笑みます。
「しかし、カレーとは運がいい。七里ヶ浜には有名なカレー屋さんがある。姉貴、テイクアウトがいいのかい? 店で食った方が美味いと思うんだが……」
「なぬっ?! テイクアウトではなく、店の方が美味いとな?! ならば当然、店へ突撃じゃ! さあ素戔、案内せよ!」
天照大神様が声を弾ませ、一行は七里ヶ浜を代表する超有名カレー店へと向かいました。
お店に到着すると、そこはまるで南国の楽園のような活気と喧騒に包まれていました。
松明の炎が妖しく揺らめき、テラス席の向こうには刻一刻と表情を変える広大な相模湾の絶景。
そして何より、厨房から漂ってくる、バターの濃厚なコクと数十種類のスパイスが完璧に融合した、脳髄を狂わせるほどの芳醇な香りが、周囲の喧騒を置き去りにして四人の鼻腔を容赦なく支配します。
「まぁ……! なんですの、この異国情緒あふれる賑わいは……! テセウス様が食べていらっしゃるカレーの香りも凄そうでしたけれど、こちらのカレーも、漂う香りの深みが凄まじいですわ!」
アリアドネは、店内に一歩足を踏み入れた瞬間、その圧倒的な楽園の熱気に瞳をキラキラと輝かせます。
やがて、四人のテーブルに運ばれてきたのは、名物の「豚カレー」や「ドライカレー」。
お皿からはみ出さんばかりのボリュームと、これでもかと盛られた濃厚なチーズ、そしてツヤツヤと輝く極上のルー。
「うむっ! 日本人ならスプーンじゃな! いただきます!」
と天照大神様が豪快にスプーンを突き立て、お口へ運びます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
カレー5杯を平らげたテセウスに嫉妬し悶絶するアリアドネ。一行も七里ヶ浜の絶品カレーに突撃します。
「カレー5杯ってテセウス食べ盛りか?」、「確かにカレーって聞くとカレー腹になるよね」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




