第52話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
京都の藩邸の夜が更けていく中、アリアドネはラップトップの画面の前で深夜まで熱心にお勉強(?)を続けていました。
「このお顔だけの子達、とても可愛らしいですわ。
……まあ! ギリシャ語の字幕でも見ることができますのね! 素晴らしいですわ!」
当初はテセウスへの対抗心から「日の本の神話や歴史」を学ぼうとしていたはずのアリアドネでしたが、インターネットの広大な海を彷徨ううちに、いつの間にか動画サイトという至高の娯楽の底なし沼へと完全にかじり付いてしまっていました。
あの独特な音声で解説される動画のシュールな魅力に、瞳をキラキラと輝かせています。
日本のネットカルチャーのディープなカオスを学ぶには確かにうってつけの教材でしたが、彼女の知的好奇心のベクトルは、ここから完全に想定外の方向へと猛烈に舵を切り出しました。
「まぁ……! この『新幹線』という鉄の箱の速さはなんですの!?
オリュンポスのヘルメス様の翼の生えたサンダルよりも速そうですわ!」
「この『あいどる』という歌って踊る乙女たち……なんてキュートで眩しいのでしょう!
わたくしもいつかお姉様方と一緒にあのステージで……!」
「ああっ、この『あにめ』という動く絵の物語、涙が止まりませんわーーーっ!」
日の本の高度な鉄道網、華やかなアイドル文化、そして世界に誇るアニメーションの数々。
画面が目まぐるしく交互に浮かび上がり、深夜の静かな藩邸に「はわわわ……っ!」という可愛い感嘆の声が小さく響き渡っています。
テセウスがホテルのベッドの上で硬派な歴史ガイドブックを読み込み、日の本の神理の真髄に近づいて求道者としての洗練度を上げているその裏で、アリアドネは完全に現代日本の「サブカルチャーの沼」へとどっぷり浸かり、あらぬ方向へどんどんと突き進んでいくのでした。
テセウスは、ホテルの快適なベッドで実に一年ぶりとなる深く穏やかな睡眠を取りました。
部屋の窓から、琵琶湖の広大な水面をきらきらと照らす爽やかな朝日が差し込み、これ以上ない心地よい目覚めを迎えます。
フロントで手渡された朝食チケットを手に、一階の朝食会場へ。そこに並ぶのは、現代日本の誇る温かい朝の和食バイキング。
「はあ……身に染みるとは、このことか……」
テセウスは、炊きたての白米、お味噌汁、そして美しく切り分けられたお豆腐を口へ運び、深く息を吐きました。
日の本の食事は、かつて彼がアテナイの宮廷で貪っていたような刺激的で濃い味付けではなく、優しくも地味深い味わい。
一年の厳しい山籠りを経て、余計な傲慢さと共に味覚の雑味が完全に削ぎ落とされていたテセウスには、そのお豆腐の持つ、大豆の驚くほど繊細で豊かな味わいすらも噛み分ける舌が備わっていたのです。
そしてその頃、京都の旧藩邸では――。
アリアドネのテセウスへの対抗意識は、今や完全に日常のルーティンと化していました。
天照大神様の細工が映し出す画面を睨みつけ、テセウスの一挙手一投足に一喜一憂するその姿は、まるで「大型の懐かないカブトムシ」を熱心に飼育観察をしている子供のような愛らしさです。
「ふふん! テセウス様、ようやくお豆腐の美味しさが分かるようになったのね?
私なんか、ずぅーーーっとこの京都のおいっしぃーーーいお豆腐をいただいてますわ!
それに、素戔嗚尊様の極上の和の朝食……あの鎌倉の滞在の時から、私の胃袋をがっつりと掴み続ける至高の朝食をいただいておりますわっ!
ざまあ見やがれですわ!」
アリアドネは、昨夜の動画サイトの夜更かしで目を少しトロンとさせながらも、画面の中のテセウスに向かってこれでもかとドヤ顔を炸裂させて勝ち誇っています。
そんな彼女の、朝から全開の可愛い自爆混じりの大騒ぎを前に――。
「……。うむ、今日も日の本は平和じゃのう」
「ほんに、アリアドネちゃんは朝から元気でまこと微笑ましいわ」
「カブトムシ観察日記は今日も異常なし、ってか」
天照大御神様、イザナミお姉様、そして素戔嗚尊様の三柱は、湯気の立つお茶をズズッと優雅に啜りながら「今日も我が家は平和だ」と言わんばかりの穏やかな笑顔でそのドヤ顔を温かく眺めていらっしゃいました。
アリアドネの理不尽な対抗心によって、すっかり賑やかな朝を迎えた京都の藩邸。
そして、繊細なお豆腐の美味さに打たれ、心身ともにすっかり洗練された旅人へと進化を遂げたテセウス。
朝食を済ませてエネルギーを補給したテセウスは、ガイドブックの地図を片手に、次なる旅路へと赴きました。
「テセウスはホテルの従業員に礼を告げて、ホテルを後にします」
ホテルの機能的で整然とした部屋を後にしたテセウスは、フロントの女性に深く一礼を捧げ、大津の街へと歩み出しました。
彼の持つガイドブックには、この日の本には「新幹線」なる、世界初の、そして世界最高峰の高速列車が存在すると記されていました。
それは奇しくも、昨夜動画サイトの沼にどっぷりと齧り付いていたアリアドネが「ヘルメス様のサンダルより速いですわ!」と目を輝かせていたあの情報と、見事なまでにリンクしていたのです。
さらにテセウスは、ガイドブックのページをめくる手を止め、激しい衝撃に目を見張ります。
そこには、東の果てに「東京」という、現代の世界で最も巨大な首都圏が存在すると書かれていました。
「世界一だと?! 我がギリシャよりも、アテナイよりも巨大だというのか……!
いや、あの天照大神様、素戔嗚尊様が統べる国なのだ。
それほどの規模があっても何ら不思議ではない。心して向き合わねばならぬな!」
テセウスはゴクリと息を呑み、服の襟を正すと、一人の真摯な求道者として大津駅へと向かいました。
駅の喧騒に気圧されつつも、彼は親切な駅員さんにICカードの使い方を尋ねます。
「カードをここに、ピッとするんですよ」と教わり、自動でパッと開閉する改札機の未知のテクノロジーに、胸の中で「なっなんと……!」と一喜一憂しながら、まずは新幹線の接続駅である米原へと向かう列車に乗り込みました。
ガタゴトと揺れる車窓から、広大な琵琶湖を眺めるテセウス。
そして、京都の旧藩邸では――。
「い、移動し始めましたわ……!
しかも、わたくしが昨夜お勉強した『しんかんせん』に乗るために、
まいばら、という場所へ向かっていますわーーーっ!」
アリアドネがラップトップの画面にピタッと顔をくっつけ、瞳をギリッとさせて地団駄を踏んでいます。
「テセウス様のくせに、わたくしより先に新幹線に乗るなんて生意気ですわ!
わたくしも、あの鼻の長ぁーい格好いい鉄の箱に乗って、びゅーーーんって東京へ行ってみたいですわーーーっ!! 悔しいですわーーーっ!」
またしても先を越されそうになり、懐かないカブトムシに威嚇された子供のように、ソファのクッションをポカポカと叩いて面白悶絶するアリアドネ。
そんな彼女の横で、素戔嗚尊様が「じゃあ俺たちも京都から新幹線で追いかけるかい?」と笑っています。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
動画沼にハマりテセウスの新幹線移動に悶絶するアリアドネ。
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