第46話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
かつてアテナイの王として頂点に君臨していたテセウスは、朝霧の立ち込める比叡山の奥深くへと足を踏み入れ、そのまま山に籠もりました。
鬱蒼と生い茂る木々の中、彼はかつて迷宮に挑み、命がけで怪物ミノタウロスを屠ったあの若き日の、一人の挑戦者としての純粋な初心を思い出していました。
あの頃の自分には、他者を踏みにじる傲慢さなどなかったはずだと、己の魂を深く見つめ直します。
二柱の神々の圧倒的な力。
その凄まじい力は己など羽虫のようにいつでも殺せたものを、我を生かしたのは何故であろう。
そしてアリアドネが我にかけた慈悲、己のしたことを思えばそれを恨み、神々に復讐を頼んでもおかしくはない。
それなのに何故我を恨むどころか慈悲をかけ生かしたのであろう。
そんな自問自答を繰り返しながら、人目を避け比叡山の厳しい自然の中で、弓矢も持たぬまま、野生の小動物を捕らえ、木の実を拾って飢えを凌ぎました。
冬を迎えその厳寒と飢えに耐える日々、
雪解けを迎え徐々に暖かさが増す日々、
春の日差しを受け彼の身も心も暖かく包み込む慈愛のような陽光、
初夏の豪雨に打たれ泥にまみれ、真夏の暑さに耐え汗にまみれながら己の心と向き合う日々を過ごすうちに彼の心から少しずつ傲慢さが消えてゆきました。
そうして一年が経った頃、彼の心からはかつての醜い傲慢さが消え去り、澄み切った一人の戦士としての眼光が戻っていました。
(……アリアドネ、私はようやく自分の小ささを、この身を以て少しは知ることができたのかもしれない。
そなたが遺してくれたこの命、もうみすぼらしい野心のために使うことはないだろう。
だがそなたの手紙には日の本を旅し己の矮小さを知れと書かれていた。
ここからはそなたの助言に従い日の本を旅してみよう)
己の心の平静さに静かに納得したテセウスは、一年を過ごした比叡山の山頂をあとにし、東側の斜面をゆっくりと下っていきます。
坂を下りきった先、由緒ある佇まいの日吉大社を静かに通り過ぎると、テセウスの目の前には、まるで海のように広大でなだらかな水面が広がっていました。
日の本が誇る日本最大の湖――琵琶湖です。
一年の山籠りを経て、髭を蓄え、野生味溢れる逞しい体躯へと生まれ変わったテセウス。
衣服はボロボロですが、その瞳には力強い光が宿っています。
「確かに広大な湖だが、これを見て矮小さを知れと? いや、そんな単純な話ではあるまい。我らが地中海の方が遥かに広い」
テセウスは目の前に広がる琵琶湖を眺めながら、アテナイの王としてのプライドを静かに律しつつ呟きました。
ただ広大な景色を見るだけなら、生まれ育った地中海の広大さには及びません。
アリアドネの手紙の真意は、別の場所にあるはずだと直感が告げていました。
彼がおもむろにマントの奥からアリアドネの手紙の封筒を取り出すと、その奥に薄く硬いプラスチックの板がまだ残っていることに気づきます。
「む、なんだこれは?なんと書いてあるのか? なんであろうか、わからぬ……」
緑色のラインが引かれた、現代の日の本の文明の利器。古代ギリシャより来たテセウスには、それが何のための道具なのか皆目見当もつきません。
そこへ、大きなリュックを背負った一人のバックパッカーが通りかかりました。
一年の山籠りで野生味溢れる髭を蓄え、衣服はボロボロながらも筋骨隆々としたテセウスの体躯を見て、一瞬ギョッとして身を警戒させます。
しかし、今のテセウスの瞳にはかつての残虐な傲慢さはなく、どこまでも穏やかで澄んだ光が宿っていました。
テセウスは日の本の礼儀に従い、深く一礼をして柔らかな物腰で声をかけます。
「誠にすまぬが、このカードは何に使うものなのか教えてくれぬだろうか」
男はテセウスのただならぬオーラに気圧されつつも、彼が言葉の通じる真摯な旅人だと理解して、ホッと表情を緩めました。
「え、あ、これですか? これはいわゆるICカードですよ。
駅の改札機とか、お店の機械にピッてタッチするだけで、お金の代わりに使えるんです。
この辺の自動販売機で飲み物を買ったり、コンビニで美味い弁当を買ったり……。
中に『チャージ』っていうお金が入っていれば、財布を持っていなくてもこれ一枚で何でも買えますよ」
初めて耳にする「改札機」「自動販売機」「コンビニ」「チャージ」という未知の言葉の数々に、テセウスは静かに驚愕します。
財布を持たずとも、この小さな板一枚で美味いものが手に入るという現代日本の仕組みは、彼にとって魔法そのものでした。
「ちょうど今から駅に行くので、使い方をお見せしますよ」
親切なバックパッカーの男はそう言うとテセウスを先導し、最寄りの駅へと向かって歩き出しました。
近代的な駅舎に足を踏み入れたテセウスは、行き交う人々や見慣れぬ機械の数々に圧倒されながらも、男に促されて券売機の前へと立ちます。
男が手際よくICカードを機械に挿入し、操作をして見せました。
「なんと! このように日の本の金を入れると数値が上がってゆく。
これで買い物ができるようになる、という理屈なのか!
甚だ不思議ではあるが……この世界の魔法なのであろうな。
して、我のこのICカードとやらには一体何ドラクマ入っているのであろう」
現代の「円」を古代ギリシャの通貨「ドラクマ」に脳内で置き換えながら、テセウスは神妙な面持ちで液晶画面を見つめます。
しかし、画面に表示された残高の桁数が一般のそれとは明らかに異なっていました。
「……あれ? 残高の表示、なんかバグってないか? すみません、駅員さんに見てもらいましょうか」
男は首を傾げ、改札口の駅員さんに事情を話してICカードのデータを読み取ってもらうことにしました。
そして、端末に表示された正確な金額を確認した瞬間、バックパッカーの男は文字通り驚愕して飛び上がりました。
なんと、その小さな緑色のカードの中には、1,000万円という、一介の旅人が2年は遊んで暮らせるほどの巨額の電子マネーがチャージされていたのです。
アリアドネ(天照大神様のお小遣い)が、彼のこれからの旅のために用意した、破格の「慈悲」の重さでした。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
アリアドネから託されたICカードはまさかの1000万円がチャージ。
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