第43話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「もう大丈夫じゃよ、アリアドネちゃん。よう耐えたのう」
まばゆい純白の光を微かにまとった天照大神様が、いつものお転婆な様子から一転、優しさと深い慈愛に満ちた瞳で、涙を流す妹分をしっかりと抱きとめます。
「……この野郎…」
テセウスを片手で吊るし上げたまま、暗闇の中で怒りに満ちた一対の眼光がぎらりと輝きました。
素戔嗚尊様は、その圧倒的な闘神の威圧感は、古代ギリシャのどんな英雄をも遥かに凌駕する、底知れぬ恐怖のオーラを放っていました。
テセウスは全身の血が凍りつくような、かつてない恐怖に駆られていました。
自分を片手で吊るし上げているこの巨大な力は、かつて迷宮で葬ったミノタウロスなどとは比較にすらなりません。
神々が戦った巨人の一族ギガンテス、いや、世界の天空をその肩で支え続けるという巨神アトラスの如き圧倒的な神力。
それほどの質量で己を押さえつけている男を前に、これまでどんな戦場や窮地に陥っても決して感じたことのなかった、絶対的な「死」を明確に予感していました。
しかし、素戔嗚尊様はアリアドネが天照大神様の腕の中で無事であることを確認すると、その万力のようだった手をスッと緩めました。
ドサリ、と冷たい地面に容赦なく叩きつけられたテセウスは、「ガハッ、ガホッ、ゲホッ……!」と激しく咳き込み、喉をかきむしりながら、本能的な恐怖のまま少しでもあの怪物から離れようと必死に地を這って距離を置きます。
しかし、ようやく呼吸を整えて正面を見据えたとき、そこに立ちはだかる巨躯が、自分の武勇などでは到底突破できない「どうしようもない絶望の壁」そのものであることを完全に認識し、その場に力なく崩れ落ちました。
素戔嗚尊様は、地を這うテセウスに対して何も言葉をかけることはせず、ただ冷徹に一瞥しただけでした。
そして、泥に汚れたアリアドネをその逞しい腕でそっと優しく抱きかかえると、天照大神様と共に、静かに京都の藩邸へと連れ帰っていきました。
静まり返った夜の鴨川沿いに、一人取り残されたテセウス。
まさに九死に一生を得た心持ちで息を荒げていましたが、あの圧倒的な威圧感が完全に去り、時間が経つにつれて、アテナイの王としての激しい悔しさと屈辱がフツフツと蘇ってきます。
(あの男……あの怪物には、逆立ちしたって絶対に敵わない。命がいくつあっても足りん……!)
しかし素戔嗚尊様への恐怖を脳裏に刻み込んだテセウスは、ここで驚くべき狡猾な思考の転換を見せました。
(もうアリアドネなどどうでも良い。あの娘の代わりに……横にいたあの女だ)
彼が目をつけたのは、傷ついたアリアドネを優しく支えていた、まばゆい純白の光を微かにまとったもう一人の女――天照大御神様でした。
(あの絶世の美女を、あの怪物の隙を見てアテナイまで略奪し、持ち帰ってやろう)
アリアドネへの執着をあっさりと捨て、今度は日の本の最高神を「新たな戦利品」として奪おうと、闇の中で密かに冷酷な決意を固めるテセウス。
彼がその女の正体が日の本の主神であり、素戔嗚尊を凌駕する規格外の力を持っていることなど、知る由もありません。
それから数日、京都の旧藩邸の奥の間では、アリアドネが痛みにうなされながら、じっと自分自身と向き合っていました。
(私はなんて愚かだったのだろう……)
あのどこまでも優しい日の本の神々の圧倒的な力を、まるで自分の力であるかのように勘違いし、テセウスを侮ってしまった己の思い上がり。
古代ギリシャの残忍な現実を忘れ、背伸びをしていた自分を心底恥じ入るばかりでした。
それと同時に、あの凄まじい絶望の壁となって自分を救い出してくれた神々の、本当の力と守るための覚悟の重さを、身を以て知ったのです。
アリアドネは、心配そうに覗き込んでくれる天照大御神様、イザナミ様、そして素戔嗚尊様に、腫れの引かない顔でボロボロと涙をこぼしながら、心からの謝罪と悔恨を口にしました。
しかし、三柱の神々は優しく微笑むだけでした。
「アリアドネちゃんや、そんなに背伸びなどしなくても良い。今はただ、妾達にどこまでも甘えていれば良いのじゃ」
天照大神様が男前な優しさでその頭をそっと撫でます。
「そうだぜ。 アリアドネちゃんはまだ若いんだ。俺たちのようになんて、そう簡単にはなれないんだよ。じっくりいこうじゃねえか」
素戔嗚尊様も、頼もしい笑みを浮かべて語りかけます。
「そなたはこうしていれば良いのじゃ……」
イザナミ様が母親のようなどこまでも温かい抱擁でアリアドネをそっと胸に抱きしめました。
その大母神の圧倒的な温もりに包まれた瞬間、張り詰めていたアリアドネの緊張と恐怖が、跡形もなく氷解していきました。
「う、うわぁぁぁん……っ! ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
アリアドネはイザナミ様の胸に顔を埋め、大粒の涙をぽろぽろと流しながら、子供のように声を上げて激しく泣きじゃくりました。
己の愚かさを許され、再び絶対の愛に守られた安心感の中で、彼女の傷ついた心はゆっくりと癒やされていきます。
さて、その頃――。
アテナイの略奪者テセウスは、京都の闇に潜みながら、執念深く藩邸の様子をじっと観察し続けていました。
あの恐るべき怪物・素戔嗚尊様の圧倒的な力を目の当たりにしたからこそ、その野生の勘と狡猾さをフルに働かせ、正面衝突を徹底的に避ける算段を立てていたのです。
狙いは、アリアドネを支えていたあの絶世の美女、天照大神様。
「あの男さえいなければ、女の一人や二人、我が力と策略の前には無力だ……」
テセウスは息を潜め、天照大神様が素戔嗚尊様のエスコートを離れ、たった一人で藩邸から出かける絶好の「隙」を、ぎらついた欲望の瞳で虎視眈々と狙い続けています。
それから1ヶ月が経ち、アリアドネの顔の腫れや身体の傷、そして心の傷がすっかり癒えた頃、天照大御神様が「ちょっとコンビニまで買いものに行ってくるのじゃ!」と、たった一人、藩邸をふらりと出かけられました。
京都の物陰に潜んでいたテセウスの目が、ぎらりと怪しく輝きます。
「フフフ……ついに隙を晒したな。あの怪物の男さえいなければ、貴様などただの無力な獲物に過ぎんわ!」
狡猾な笑みを浮かべたテセウスは、音もなく天照大神様の後ろを尾行し始めました。
しかし、その男の背後から、さらに二つの影が静かに動いていました。
素戔嗚尊様が二重尾行を開始したのです。
そして、その後ろをアリアドネも一生懸命についてきていました。
「おいおい、もう歩いて大丈夫なのかい?」
素戔嗚尊様が足を止め、心配そうに優しい声をアリアドネへと向けます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
なんとか生き延びたものの、懲りずにターゲットをアマテラス様へと変更したテセウス。
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