第41話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
黄泉比良坂へと足を踏み入れたテセウスを待ち受けていたのは、彼の想像とは全く異なる光景でした。
かつて数多の亡者が蠢き、暗雲が立ち込めていたはずの境界の地。
そこは、日の本の主神・天照大御神様が放った至高のまばゆい光によって完全に浄化され、穏やかで神聖な空気が流れる場所へと変貌を遂げていたのです。
「な、なんだこの場所は……。冥府と聞いていたが神聖すぎやしないか?!」
己の狡猾な野心に満ちたテセウスは、その清らかな光に不快そうに眉をひそめます。
しかし、彼の研ぎ澄まされた野生の勘は、すぐにある異変を捉えました。
浄化された世界の片隅。
そこだけが、まるで抉り取られたかのように、悍ましくも妖艶に美しい闇が広がっている一角がありました。
そこには、血のように真っ赤な彼岸花が不気味に咲き乱れています。
その闇の奥深く、時空の歪みの先にあるのは――魑魅魍魎が夜な夜な跋扈する、現代の日本の古都・京都の裏世界。
「ふん……。この禍々しい瘴気の奥か。間違いない、あの娘の匂いが微かに混ざっているな」
テセウスの鋭い直感が、その闇の先にアリアドネがいると完全に確信しました。
王としての傲慢な笑みを浮かべた彼は、不気味に揺れる彼岸花をその足で容赦なく踏み荒らしながら、現世へと繋がる険しい坂道を一歩、また一歩と力強く登り始めます。
テセウスが彼岸花を踏み荒らし、悍ましくも美しい闇の坂道を登り詰めると、周囲の景色が静かに反転していきました。
彼が這い出た先。そこは、月明かりが鴨川の川面を妖しく照らし出す、現代の京都の夜の帳の中でした。
遠くから聞こえる微かな街の喧騒。
そして、アテナイやクレタの海とは明らかに異なる、湿り気を帯びた古都の川風がテセウスの頬を撫でます。
「ここが『日の本』とやらか。妙な形の建物ばかりだが……フン、大したことはなさそうだな」
不気味な夜の鴨川沿いに佇み、衣服の汚れを払いながら周囲を見回すテセウス。
彼の鋭い野生の勘は、すでにこのすぐ近くに、目的の獲物であるアリアドネの気配があることを捉えていました。
しかし、彼が踏み入れたこの京都の裏世界は、実質的に闘神・素戔嗚尊様が総大将として率いる京都藩邸の目と鼻の先です。
鴨川のせせらぎが響く夜のほとり、アリアドネは冷ややかな視線を闇へと向けました。
その研ぎ澄まされた感覚は、テセウスがすぐ近くまで来ていることを敏感に察知しています。
しかし、数ヶ月もの間、日の本の最高神である天照大神様の圧倒的な光に包まれ、大母神イザナミ様の温かさに触れ、素戔嗚尊様に全方位から庇護され続けてきた彼女の心には、いつしか「テセウス如き」という深い侮りが生まれていました。
「ふん。来るなら来てみなさい! 私に今更なんの用があるっていうのよ!」
彼女は、完全にみくびっていたのです。
日の本の神々の、あのどこまでも優しく、かしましくも愛に満ちた空気に長く浸っていたせいで、アリアドネは忘れていました。
テセウスという男が、迷宮の糸という手助けがあったとはいえ、あの凶暴極まりない怪物ミノタウロスを自力で屠り、狡猾な策略でアテナイの頂点へと這い上がった「剛の者」であることを。
そして、現世の道徳など一切通用しない、古代ギリシャの残忍な略奪者そのものであるという恐怖を。
「アリアドネ。……やはりここにいたか」
夜の鴨川の草むらをかき分け、低く、冷徹な声が響きました。
月光を背に浴びながら姿を現したテセウスの瞳には、かつてナクソス島に置き去りにした時と変わらぬ、傲慢で強烈な所有欲の炎がぎらぎらと燃え盛っています。
「アリアドネーー!! ふっふっふ。見つけたぞ?」
闇を切り裂くようなテセウスの叫びが、夜の鴨川に響き渡りました。
「おおっ!アリアドネよ。随分と、いや、なんと美しい!眩いばかりの美貌を放つようになったではないか! それでこそ我妻に相応しい!」
その声を聞いた瞬間、アリアドネの身体がビクッと跳ね上がりました。
恐る恐る振り向くと、そこには月光を浴びて不敵に笑う、かつての裏切り者テセウスが立っていました。
その目を見た瞬間、アリアドネは五感が凍りつくような衝撃とともに、全てを悟りました。
自分に向けられているのは、日の本の神々のような温かい愛では断じてない。
剥き出しの強欲、自分をただの「戦利品」としてしか見ていない冷酷な瞳。
そして、いつも見慣れているはずの素戔嗚尊様のような逞しい身体が、自分を「守るため」ではなく、容赦なく「蹂躙するため」に自分へと向けられているのだという絶対的な恐怖。
先ほどまで抱いていた「テセウス如き」という甘い余裕は、一瞬にして雲散霧消しました。
「あっ……あっ……」
すぐにでも京都藩邸の素戔嗚尊様や、お姉様たちへ助けを呼ぼうとしますが、恐怖で声が全く出ません。
「ふふっ、貴様をアテナイの妃にしてやる。さあ来るがいい」
あまりにも傲慢に歩み寄ってくるテセウスの姿に、恐怖の奥底から、かろうじて抵抗するための怒りが絞り出されました。
「……だっ……誰があんたなんかに!」
「ん?どうしたというのだ、我が迎えに来てやったのだ。今や我はアテナイの王だ! その妃としてそなたを迎えにきてやったのだ。もっと喜ぶがいい!」
「わっ…私を一度捨てたくせにいまさら何を言っているの?! しかもあの何もない無人島に置き去りにしたのよ?!」
「ふふふ、だからこのように迎えに来てやったではないか。さあ、我についてくるがいい! くっくっく、可愛がってやるぞ?!」
「不埒なっ…!だからっ!!私はもう貴方なんて必要としていない! 今はテセウス様など遠く及ばない素晴らしい神々のもとで幸せに暮らしているわ! とっととアテナイに帰って!! あんたの顔なんて二度と見たくないわっ?!!」
しかし、その拒絶が事態を最悪の方向へと導いてしまいました。
日の本の優しい世界しか知らない彼女の反抗など、古代の残虐な王にとっては不快なノイズに過ぎません。
「貴様……、不憫だと思い言わせておいてやれやば… 随分と、生意気な口を聞くようになったものだなあ?! この我が及ばないだとお?!!」
パァンッ!!!
テセウスの手が、容赦なくアリアドネの美しい顔を殴りつけ、彼女の身体を冷たい地面へと激しく張り倒しました。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
ついにアリアドネの前に姿を現したテセウス。日の本の優しく温かい世界に慣れてしまっていたアリアドネ。完全に古代ギリシャの英雄を舐めていた。
「あー、アリアドネちゃん、やっちゃったね」、「古代ギリシャの英雄、倫理観ヤバい」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




