第40話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
京都に来てから数ヶ月の時が流れました。
旧藩邸を拠点に過ごすアリアドネは、すっかりこの古都の暮らしに馴染んでいます。
今では、お気に入りとなった、たかばしのラーメン店へ一人でふらりと食べに行くほど「日の本の民」に染まってます。
「今日はどちらのラーメンを頂こうかしら… いつも迷ってしまいますわー!」
イザナミ様もまた、京都の風情ある街並みを散策され、その妖艶な佇まいは、街の人々から「どこかの高貴な家の方か」と、畏敬の念を持ってすっかり景色に溶け込んでいます。
しかしその頃、遥か時空を超えた古代ギリシャ、神聖なる都市アテナイ。
アリアドネを裏切り、置き去りにした張本人であるテセウスが、アテナイの権力を完全に掌握し、王座に腰掛けていました。
すべてを手に入れたはずの彼の脳裏に、かつて迷宮の糸を授けてくれた純真な乙女の姿が、ふと傲慢な執着とともに蘇ります。
「むう…ナクソス島に一度探しに行ったがどこにもいなかった。あの娘は私が見た中で最も美しかった。手に入れたいと思っていたのだがクレタ島にもいないという。どこに行ったのやら」
己の野心のために彼女を捨てたくせに、いざ手に入らないとなると、その美貌への歪んだ独占欲が燻り始めているようです。
アリアドネが今や日の本の神々の大きな愛に包まれ、ラーメンをすすって幸せに暮らしていることなど、知る由もありません。
テセウスは、単なる血筋ではなく、己の圧倒的な武勇と冷徹な狡猾さによってアテナイの王座を掴み取った男。
その野生の勘は極めて鋭く、一度狙った獲物は逃さない執念深さを持っています。
「あのナクソス島から跡形もなく消え去るなど、並の人間技ではない。……まさか、すでに冥府の住人となったか」
その冴え渡る勘に導かれるように、テセウスは生身の身でありながら、不気味な静寂が支配するハデス様が統べる冥府の門へと足を踏み入れました。
冷徹なる冥王ハデスに謁見を求めます。
ポセイドン様の血を引く彼の申し出を受けたハデス様でしたが、その目は冷たくテセウスを見据えめます。
「何用で参った。ここは貴様のような生者が来るような場所ではない」
「はっ、ハデス様におかれましてはご機嫌麗しゅう存じ上げます。
なに、こちらには我妻となるはずであったアリアドネという者を探しに参りました。
その者を置いてきたナクソス島には影も形もなく、まるで神隠しにあったかのようでして。
そこでもしやと思いこちらにまかり越しました次第にございます」
王となり傲慢になってしまったテセウスといえどもハデス様にはその傲慢さを見せるほど愚かではありませんでした。
彼が好んで食していたアテナイで取れた肉、そしてハデス様の妻であるペルセポネ様が好んだとされる猪の肉を献上します。
彼の傲慢さは耳にしていたものの、愛する妻の為に持ってきたとなればハデス様も悪い気はしていなかったようです。
しかし、アリアドネの名には聞き覚えがある。
愛する妻が日の本に送った娘、そしてそのきっかけとなったのが目の前にいるテセウスです。
ハデス様はそのテセウスの不誠実さを思い出し眉をひそめましたが、妻への誠意ある態度に免じて一度だけ話だけは聞いてやることにしました。
そして、テセウスがアリアドネを探しているといった時、妻が何も答えないのを見てそれが妻の意思だと感じたハデス様は答えます。
「知らぬな。神隠しと申したな。神隠しなど冥府以外にいくらでもあろう。ゼウスに攫われたか、ポセイドンに拐かされたか…」
「さようで御座いましたか。大変失礼を申し上げてしまいました。私の思い違いのようです。それではこれにて失礼いたします」
しかし、ハデス様への謁見の最中、彼の鋭い眼光は、傍らに佇む冥妃ペルセポネ様のわずかな動揺を捉えます。
いつもは氷のように澄ましている彼女の指先が微かに震え、その眼差しに、何かを隠し通そうとする奇妙な陰りがあることに気づいたのです。
(妙だな……。この冥妃、何かを知っている)
謁見の後、ハデスの目を盗み、テセウスは狡猾な足取りでペルセポネ様ににじり寄ると、王としての威圧感を孕んだ低い声で彼女を容赦なく問い詰め始めました。
「ペルセポネ様。アテナイの王としてお尋ねしたい。クレタの王女アリアドネの魂は、本当にこの冥府に届いていないのですか? ……貴女のその目は、何か別の真実を語っているように見えるのですが」
「ほう、何故そう思う?」
「ハデス様との謁見のおり、貴女はどこか動揺しているような、それでいて我を試すような眼をされていた。我の洞察はいかがでしょうか?」
「ふふっ。そうかえ」
テセウスの鋭い追及に対し、冥妃ペルセポネ様は動じるどころか、その冷徹な唇の端を吊り上げてテセウスを挑発するかのように妖しく微笑まれました。
「さすがのものよのう。ただ、教えてやっても良いが…そなたに手に負えるかのう?そなたでは荷が重すぎるのではないか…?」
「なっ! 何を申される!」
想定外の侮蔑とも取れる言葉に、テセウスの勇猛なプライドが激しく逆立ちます。
「我は己の力でここまで上り詰めたのだ! いくらペルセポネ様と言えども、言っていいことと悪いことがありますぞ!」
己の武勇と狡猾さに絶対の自信を持つアテナイの若き王は、ペルセポネ様を激しい眼光でにらみつけました。
しかし、日の本の主神や大母神の圧倒的なスケールを知る冥妃は、その怒りを鼻で笑うように見つめます。
「アリアドネは今や日の本という、今のアテナイとは比べものにならぬ巨大な国の神々に庇護されておる。そなたが行っても今さら無駄だと思うがのう?」
「ふん!日の本の神ですと?そんな聞いたこともない国の神々など我が手にかかれば赤子の手を捻るよりも簡単に蹴散らしてご覧に入れましょうぞ?!」
「ふっそうかえ…そこまで申すのであればそこで己を知るのも良かろう。では行ってくるが良い」
ペルセポネ様がテセウスを連れ地上への坂を上ります。
そして中腹にさしかかったころペルセポネ様が静かに腕をかざすと、冥府の澱んだ空気がぐにゃりと歪み、奈落の底へと続く冷たい風が吹き荒れました。
彼女の祈りと魔力によって、時空を超えた異界の境界――黄泉比良坂への禁忌の道が、その禍々しい口を開きます。
テセウスの身体は抗う間もなく光に包まれ、ペルセポネ様の手によってその不気味な境界の地へと連れて行かれました。
暗く、寂涼とした空気が漂う黄泉比良坂。かつてアリアドネが倒れ、イザナミ様と出会ったその始まりの場所に、今、アテナイの略奪者テセウスが足を踏み入れます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
京都でラーメンをすすりすっかり馴染んでいるアリアドネ、その一方で古代ギリシャではアリアドネへの執着を燃やすテセウスが冥府へ進出。
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