第36話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「さて、腹も満たされたし、アリアドネちゃんがちょっと疲れ気味だ。白浜の温泉を梯子なんてどうかな?」
素戔嗚尊様が、目を血走らせていた妹分を気遣い、極上のリフレッシュ案を提示します。
「おっ、温泉かえ?!」
その一言に、またしてもイザナミ様の大きな瞳がキラキラと、少女のように輝き始めました。
湯河原での名湯の感動がよほど忘れられなかったご様子です。
「じゃ決まりだな! チケットがあれば一帯の温泉に入れるってサービスがあるんだ」
全員のテンションが一気に跳ね上がり、車は紀伊半島をさらに回り込んで西へ、名湯・白浜温泉へと向けて滑らかに走り出しました。
そして白浜に到着した、まさにその瞬間。
車が停まるやいなや、「もう待てない……!」と言わんばかりに、イザナミ様が勢いよく走り出しました。
一直線に温泉の暖簾へと目掛けて駆け出していきます。
「あーーーっ! お姉様! 霧の衣(神様のオーラを抑えて普通の人に見える衣)、まだかけてねぇよ!」
素戔嗚尊様が声を張り上げますが、念願の湯を前にした大母神の耳には届きません。
イザナミ様が、無防備なまま現世の街を疾走する――その結果は凄まじいものでした。
すれ違う老若男女、街の民たちが、彼女のあまりの美しさと圧倒的な高貴なオーラを正面から浴びて、言葉を失い、次から次へとパタパタと地面に倒れ伏していきます。
「あっちゃー……。姉貴、お姉様に霧の衣かけてきてくれ。俺は女湯には入れねえからな。多分、今頃向こうの風呂場も大惨事だろうぜ」
「はー、しょうがないお姉様じゃのう」
「どの口が言うか……」
「なんかいうたかえ?」
「いいえ何も!」
いつもの予定調和なやり取りを交わしながら、天照大神様はお転婆に笑ってイザナミ様の後を追いかけ、大騒ぎになっているであろう温泉の女湯へと消えていきました。
「あれっ? アリアドネちゃんは行かないのかい?」
素戔嗚尊様がふと振り返ると、アリアドネが心配そうに足を止めていました。
「いえ、街の人たち、気絶して倒れてしまっていますわ……。早く介抱しないと……!」
「ああ! 大丈夫だよ。気は失ってるけど、起き上がれば前より元気になっているくらいさ」
「そっ、それが規格外のお力なんですか……!?」
アリアドネが瞳を丸くして戦慄します。
「ん? はっはっはっ! いや、違うよ。あれはただの神気だよ。アリアドネちゃんも、もう普通じゃない神気放ってるから気をつけるんだよ」
「えっ? わたくしなんかが、ですか……?」
「そうさ! 姉貴のプロデュースをずっとその身に受けてるんだ。そう言えば説得力があるだろう?」
素戔嗚尊様に諭され、アリアドネは思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまいました。
テセウスに裏切られた哀れなギリシャの王女だったはずの自分が、日の本の主神にプロデュースされ、いつの間にか一般の民を気絶させかねないほどの神力を身にまとい始めているという事実に悶々としてしまいます。
「あの太陽をヒョイっとやっちまう姉貴の神気。そして歩くだけでパタパタと人が倒れちまうお姉様の神気……。それらをまともに浴びてるアリアドネちゃんが平気なのは、なんでだと思う?」
姿の素戔嗚尊様がいたずらっぽく笑みを浮かべて問いかけます。
アリアドネはハッと息を呑みました。
プラチナブロンドの髪が白浜の潮風にふわりと揺れる中、彼女の頭の中で点と点が一本の線に繋がります。
(そ、そう言えばわたくし……天照大神様のまばゆい至高の光も、イザナミお姉様の圧倒的な大人の妖艶な気配も、いつも真正面から普通に浴びて、一緒に牛丼を食べてきゃっきゃと笑い合っていますわ……!)
普通の人間なら一瞬で気絶してしまうほどの神聖なエネルギー。
それを当たり前のように受け入れ、むしろお腹と背中がくっつきそうだなんて無邪気に笑えていた自分。
「そう言うこと!」
素戔嗚尊様が、ポンと彼女の肩を叩いて笑いました。
天照大神様のプロデュース、そして何よりも日の本の主神達の神気を毎日身に受けてこの東海道の旅路を一歩一歩進むうちに、アリアドネ自身の魂も、お姉様方に寄り添えるほど気高く、そして力強く磨き上げられていたのです。
「さっ、アリアドネちゃんも行っといで。霧の衣を忘れずにね!」
「は、はい……っ! 霧の衣……しっかりとかけてまいりますわ!」
自分の秘められた変化に驚きつつも、素戔嗚尊様のスマートなエスコートに背中を押され、アリアドネは瞳を輝かせました。
神気を優しく覆い隠す霧の衣をまとって、お姉様たちの待つ温泉へと一歩を踏み出します。
白浜の名湯がそそぐ湯殿からは、すでに天照大神様とイザナミ様の「あー、極楽じゃのう!」「ほんに、日の本の湯は至高じゃ」という賑やかで楽しげな声が響いてきています。
皆が温泉を楽しんでいるその合間に、素戔嗚尊様は白浜の宿へ連絡を入れていました。
今夜の客室を押さえ、夕食には紀州が誇る幻の高級魚「クエ料理」のフルコースを用意するよう、完璧な手配を済ませます。
しばらくして、白浜の温泉にたっぷりと磨かれ、すっかり蕩けそうになりながら三柱の女神たちが車へと戻ってきました。
「なんじゃ素戔よ。そなた温泉に行かなかったのかえ?」
イザナミ様が、少し申し訳なさそうに素戔嗚尊様に尋ねます。自分たちばかり極上の湯を堪能してしまったのが、少し心苦しかったご様子です。
「なに! 今日の宿に最高の温泉があるんでね。今日は俺も宿に着いたら、酒をゆっくり飲んで湯に浸かってくるから大丈夫ですよ!」
素戔嗚尊様がハンドルを握ると、イザナミ様は「そうかえ、それは重畳じゃ」と、艶やかな笑みを湛えて心から安心されておりました。
車が宿へ到着し、夕食が部屋に案内されると、そこには職人が腕を振るった至高のクエ料理が、目を見張るようなお膳となってズラリと並べられていました。
薄造りのお刺身は、大輪の大輪の牡丹の花のように美しく皿に敷き詰められ、その透き通った身が美しく輝いています。
そして、テーブルの中央では、昆布のダシが引かれた贅沢な「クエ鍋」が、白煙を上げて静かに沸き立とうとしていました。
「おおおっ! なんじゃこの透き通るような身は! これが幻のクエとやらか!」と、天照大神様が瞳を輝かせ、待ちきれずに箸を伸ばします。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
イザナミ様の「霧の衣」忘れで街中が大騒ぎに。 一方で幻の高級魚「クエ料理」のフルコースを味わう至福のひとときとなりました。
「最高神の神気チート私も欲しい!」「クエは絶対B級じゃないだろ」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




