第19話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
(ぷっ……くくく……っ! パパ上、本当に大馬鹿者じゃ! 自分の妻の顔も、美しくなったら分からぬとは、情けなやーーーっ!)
声を上げて爆笑してしまいたい衝動を、純白のドレスの袖で口元を必死に押さえながら、肩をぷるぷると震わせて堪えています。
そしてアリアドネもまた、ドレスの胸元にそっと手を当て、これから起こるであろう驚愕の瞬間に向けて、胸をドキドキと高鳴らせながら事の顛末を息を潜めて伺っていました。
ここで、イザナミ様が、現世の鎌倉の街で磨き上げた完璧なタイミングで、パパに向かってニコリと艶やかに微笑みかけました。
ズキュン、と物理的な音が響きそうなほどの衝撃がイザナギパパを襲います。
そのあまりにも美しい微笑みに、パパの心臓は見事なまでに射抜かれてしまいました。
「だっ……だめだ! 天照! この美女をギリシャへなどと連れてゆくなど、言語道断じゃ! 断じて許さん!」
イザナギパパは、まるで恋に狂った若者のように身を乗り出し、天照大御神様に向かって手を振ると、すぐにまたイザナミ様の方へと甘い眼差しを向けました。
「これ、そなた。……どうじゃ、ギリシャなどという遠い異国ではなく、しばらく、このわしの側におらぬか? 悪いようにはせぬぞ」
とうとう、イザナギパパは、目の前の女性が他ならぬ自分の元妻だということに最後まで気づかないまま、これ以上ないほどだらしなく鼻の下を伸ばし、イザナミ様を熱烈にナンパし始めてしまったのです。
「ぶふっ……!」
天照大御神様は、ついに口元を押さえていたドレスの袖を跳ね除け、限界を迎えた腹筋を震わせて叫びました。
「だっ……だめじゃ! もう耐えられん! ぶはははははっ! あーおかしいっ!!」
神殿の厳かな空気を完全に吹き飛ばし、床を叩かんばかりに大爆笑し始める我が娘の姿に、イザナギパパは呆気に取られました。
「な、なんじゃ天照……?! 人が真剣に話をしておるというのに、何をそんなに狂ったように笑っておるのだ!?」
「ひーっ、ひーっ……っ!」
天照大御神様は、涙の滲む目を必死に拭い、お腹を押さえながら、かろうじて言葉を紡ぎます。
「パっ……パパ上! その美女を、よーーーーくご覧になるがいい! ぶははははっ! たまらぬっ!」
種明かしの核心を言う前にまた笑いの波に襲われ、再び笑い転げる最高神。
アリアドネもまた、これから訪れる決定的な瞬間に息を呑み、ドレスの胸元をぎゅっと握りしめて見守っています。
「この美女を、よく見よと……?」
イザナギパパは、天照大御神様に促されるまま、困惑しながらも、目の前の美女へと改めて視線を戻しました。
その美貌を、今度はまじまじと、一筋の狂いもなく見つめます。
その瞬間、美女は、だらしなく鼻の下を伸ばしていたイザナギパパを、静かに上から見下ろすような眼差しへと変え、どこまでも深く、冷ややかに微笑んでいました。
神殿のすべての音が消え去ったかのような、張り詰めた静寂がその場を支配します。
イザナギパパの額から、タラリと冷たい汗が頬を伝い落ちました。
鼻の下を伸ばしていた彼の顔が、見る見るうちに驚愕で真っ白に変色していきます。
その脳裏に、数千年前、黄泉の国で目にしたあの面影が、今の洗練された美しさの奥底にある「神気の本質」とようやく結びつきました。
「まっ……ま……まさか……っ!?」
腰が抜けそうになり、後ろへじりりと退くイザナギパパ。その無様な姿を見下ろしながら、漆黒のドレスの女神は、気品に満ちた声を神殿の隅々にまで響かせました。
「ふふっ。ようやく気づいたのかえ」
イザナミ様は、最高の笑みを浮かべ高らかに言い放ちます。
「さよう。妾じゃ。……何千年ぶりかのう、イザナギ」
「ぶわーっはっはっは! パパ上! どうなされた?! 貴方様の麗しき奥様じゃよ?」
天照大御神様は、涙を流しながらこれ以上ないほどの大爆笑を続けています。
その横で、イザナギパパは完全に魂が抜けたように呆然としながら、助けを求めるかのように天照大御神様、そして後ろに立つ素戔嗚尊様へと視線を泳がせていました。
「あ、天照……す、素戔……これは一体……」
しかし、そんな無様な夫の姿を見下ろしながら、イザナミ様はドレスの裾を静かに整え、ふっと美しい不敵なため息を漏らされました。
「ふむ。本当に気づかぬとはのう。天照や、そなたのプロデュース、ほんに大したものじゃ」
イザナミ様は、愛する妹へと視線を送り、優しく微笑みます。そして、再びイザナギパパへと冷ややかな目を戻しました。
「さて、もう妾の用は済んだ。少しでも動揺するかと思うておったが、この男の姿を見ても、もはや何も感じぬわ。
ましてや、このような無様をさらしてはのう。ほんに興醒めじゃわい」
その言葉には、かつて何千年も黄泉の国で抱き続けていた怨みや未練すらも、完全に消し去った者の潔さがありました。
そう言って、イザナミ様が踵を返し、神殿を去っていこうとしたその時です。
「ま……待ってくれ、イザナミよ……っ!」
イザナギパパは、地べたに這いつくばるようにして、去りゆく元妻のドレスの裾へと手を伸ばしました。
「あの時は本当に悪かった……っ! 全て、予のいくじのなさが招いたことじゃ!
なあ、そなた……あの時のように……また、仲睦まじい夫婦に戻ってはくれぬか……っ!」
かつての最高神としての誇りや威厳をすべてかなぐり捨て、涙目で必死に懇願するイザナギパパ。
そのあまりにもみっともない姿を見つめ、イザナミ様は歩みを止め、肩越しに冷たく、しかしこの上なく艶やかに微笑んで一言、こう言い放ちました。
「はて……どちら様でしたかいのう?」
どちら様?貴様など知らぬわ!
という意思表示が最高に痛快な仕返しとなって、神殿の隅々にまで高らかに響き渡りました。
「……っ!」
イザナギパパが絶望で真っ白に固まる中、イザナミ様は二度と振り返ることなく、ドレスを颯爽とひるがえして神殿を後にしました。
その様子を真横で見ていたアリアドネの胸には、まるで真夏の突風が駆け抜けていったかのような、今までに味わったことのない凄まじい爽快感が吹き荒れていました。
(なんて……なんて格好良くて、美しい御方なのかしら……っ!)
男の理不尽な裏切りに泣き寝入りするのではなく、自らの美しさと誇りを持って、相手を完全に、それも最高にエレガントにねじ伏せてみせたイザナミ様。
アリアドネの青い瞳は、ただの絶望からの救済を飛び越え、目の前の偉大な女神への、深い深い憧れと尊敬の光で満ち溢れていました。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
これにて、数千年越しの因縁(?)完全決着です。
「はんなりイザナミ様エモい」「イザナギパパ、ドンマイ」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




