第128話
「寂しいのう……」
イザナミ様がポツリと独り言のように呟いたその一言が、七里ヶ浜の家のリビングに重く沈んでいきました。
天照大神様も、開け放たれた窓から差し込む夕日をじっと見つめたまま、何も言葉を発することができずに立ち尽くしていました。
しかし、素戔嗚尊様だけは、この断絶の裏側に何か、言葉にできない「引っ掛かり」を敏感に感じ取っていました。
気分転換を兼ねて、憔悴した姉たちのために夕食の買い出しへ出かけようとした、まさにその時です。
不意に、ポケットの中でスマートフォンが震え、着信音が静かな道中に響きました。
画面に表示された名前に、素戔嗚尊様は一瞬目を見開きます。
「……何だ?」
訝しみながらも通話ボタンを押し、耳に当てました。
『よう、兄貴。うなだれてるんじゃないかと思ってな』
電話の向こうから聞こえてきたのは、京都に行っていた現代のテセウスからの、不敵で、しかしどこか見透かしたような声でした。
「……はっ! そうだよ。お前、こっちに来ていたんだったな?!」
素戔嗚尊様が声を荒げると、テセウスは落ち着き払った調子で言葉を継ぎました。
『そうさ! ということは……あちら側の、黄泉の扉は閉まったのかい?』
「ああっ! お前の言う通りだ! 跡形もなく消えちまったよ!」
扉が消滅した理由を、まるですべて予見していたかのようなテセウスの問い。
テセウスは、うろたえる素戔嗚尊様を諭すように、短く、しかし確固たる意志を込めて告げました。
『わかった。……今から鎌倉に向かうよ、兄貴。二、三日待っていてくれ』
そう言い残すと、テセウスは一方的に電話を切りました。
呆然とスマートフォンを見つめ、買い物袋を提げたまま立ち尽くす素戔嗚尊様。
かつてアテナイの国家を最適化し、3000年の修行を経て現代の日本に来た「神としての英雄」が、この絶望的な断絶を前に、再び鎌倉の地へとその一歩を踏み出そうとしていました。
「お姉様! 姉貴! テセウスから連絡が入った! 奴が二、三日経ったらこっちに来るってよ!」
素戔嗚尊様は買い物袋を提げたまま玄関へと駆け込み、リビングでうなだれていた二柱の女神へ向けて声を張り上げました。
「えっ……?」
「テセウス……? 何が起こったのじゃ?」
唐突な名前に、天照大神様とイザナミ様は一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして顔を見合わせました。
しかし、天照大神様が何かに気づいたようにポンと手を打ちます。
「あっ、そうじゃ! あやつ、確か『京都にメシを食いに行く』と言って、あのまま行方知れずになっておったのう」
天照大神様の瞳に、かつての快活な輝きが戻ってきました。
「……というか、そうじゃ! なぜ今まで気づかなかったのだ!?
確かに、あの黄泉と冥府を繋いでいた『過去へのトンネル』は切れてしもうたが、あれから悠久の時が過ぎた現代でも、あやつらは皆おるに決まっておるではないか!」
その言葉に、イザナミ様もハッとしたように漆黒の瞳を揺らしました。
「そうじゃ……。さようであったな。
妾達にとってはあの扉が閉じてからまだ数日じゃが……
ギリシャの地では、あのアリアドネちゃんの婚礼から3000年もの時が流れておるのじゃったのう」
二柱の女神の間に流れていた重苦しい沈黙が、驚きと希望の入り混じった柔らかな空気へと書き換えられていきます。
過去との道は絶たれました。
しかし、歴史の地層を積み重ね、現代の神として在り続ける彼らとの絆は、今もこの同じ空の下で繋がっているのだという事実に、ようやく思い至ったのです。
「まあ、ともかく……テセウスが来るのを待つとしよう。あやつ、京都で一体何を食べておったのやら」
イザナミ様は優雅に腰を下ろすと、少しだけ肩の荷が下りたように穏やかな微笑を浮かべました。
七里ヶ浜の白い家。窓の外に広がる湘南の海は、古代から現代まで変わらぬ波音を響かせながら、再会の二、三日後を静かに待とうとしていました。
「まだかのう?! 何をやっておるのじゃ、あやつは。
妾に会いにこの日本に来たのじゃろう?!
その妾を待たせるなんぞ……良い度胸じゃ!」
天照大神様はリビングを落ち着きなく歩き回っていました。
かつて、比叡山の山頂でテセウスの傲慢さを焼き尽くさんばかりの神威を放っていたあの日の姿はどこへやら。
今の天照大神様は、まるで遠距離恋愛の恋人を待つ少女のように、現代のテセウスを心待ちにされています。
その様子を、イザナミ様がどこか愉快そうに眺めていました。
「天照や。そんな姿を彼奴に見られると、不埒に言い寄られるぞえ?
そなた、よもや忘れておるまいのう?
かつてそなたが彼奴に放った、あの『特大の誘惑』を」
もう1話連投しまーす。




