第126話
一行は約束通り、再び静寂と冷気が支配する冥府へと戻り、ハデス様とペルセポネ様の待つ漆黒の城へと足を踏み入れました。
「……待っていたぞ、日の本の神々よ。婚礼の余韻は冷めたかね?」
ハデス様が、深淵のような瞳に僅かな期待を滲ませながら問いかけます。傍らのペルセポネ様も、天照大神様が約束した「心がポカポカになる術」がどのようなものなのか、興味津々な様子で身を乗り出しました。
「ふむ。ハデス様、お待たせいたしましたな。日輪の神として、この冥界に永く凍てついた貴殿の心を、陽だまりのように温める方法を今こそお話ししましょうぞ」
天照大神様が静かに、しかし絶対的な確信を持って告げました。
「その方法とは……ペルセポネ様の柘榴の呪縛を、完全に消滅させることです」
「なっ……なんだと?!」
ハデス様の身体に、経験したことのないほどの激しい動揺が走りました。玉座の手すりを握る拳が、白くなるほどに震えています。
「ペルセポネの呪縛を消滅させる、だと……? そっ、そんなこと、できるわけがなかろう! それはこの冥界の理、世界の秩序そのものに関わることだぞ!」
「いえ、妾は現に、イザナミお姉様の『黄泉戸喫』を消滅させました。柘榴もまた、それと同様の呪いです。日の本の主神たる妾が、それを焼き尽くしてしんぜましょう」
「しっ……しかし、それでは……っ!」
ハデス様はさらに激しく動揺し、その深淵の如き瞳を大きく揺らしました。
冥府の呪いがなくなれば、ペルセポネ様をこの地に繋ぎ止める理は消える。
それはすなわち、彼女が己の元を離れ、二度と戻ってこなくなることを意味するのではないか。
しかし、これほどまでに彼女を愛していながら、己の独占欲のために彼女を縛り付け続けることが、果たして彼女の望むことなのか……。
ハデス様の心の内は、荒れ狂う嵐のような慟哭に支配されていました。
「大丈夫じゃ、ハデス様。妾と天照を信じておくれ」
憔悴しきったハデス様へ、イザナミ様が、同じ冥界を統べる者としての深い慈愛を込めて、優しく言葉を添えました。
ハデス様は、恐怖に顔を歪め、今にも崩れ落ちそうなほどに打ちひしがれていました。
しかし、その傍らで、ペルセポネ様は静かに涙を流していました。
自分を失うことをこれほどまでに恐れ、苦しみ、身を削るようにして愛してくれている。
目の前の厳格な王の、剥き出しになった心に、彼女はかつてないほど深く感動していたのです。
ハデス様は、長く、重い沈黙のあと、悲しげに目を伏せて絞り出すように言いました。
「……ペルセポネが……彼女が望むのなら、そうしよう」
自らの幸福よりも、最愛の妻の自由と気持ちを最優先したその一言。
その潔くも切ない愛の言葉が、ペルセポネ様の心の奥底を、真っ直ぐに射抜きました。
「では、参るぞ」
天照大神様がそう呟くと、その身体が太陽の如く激しく輝き始めました。
かつてイザナミ様の呪縛を解いた時と同様、神殿の冷気を一瞬で塗り替えるほどの圧倒的な日輪の光が、ペルセポネ様の全身を包み込みます。
冥府の冷たく重い理が、日輪の如き聖なる熱によって、音を立てて焼き尽くされていく。
光が収まったとき――そこには、もう何処にも繋ぎ止められていない、真の自由を得たペルセポネ様が立っていました。
ペルセポネ様の柘榴の呪縛は、今、完全に消滅したのです。
ハデス様は、その深淵を映すような瞳を静かに閉じられました。
神殿を支配する重く冷たい静寂。
しばらくして、彼がゆっくりと顔を上げたとき、その唇から紡がれたのは、断腸の思いで絞り出した「慈愛」の言葉でした。
「ペルセポネ……そなたは、もう自由だ。
もはやこの冥界に、呪縛によって繋ぎ止められる理由はない。
そなたの好きにするが良い」
最愛の妻との永遠の別れを覚悟した、悲しげで、それでいて凛とした響き。
しかし、その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、ペルセポネ様は大粒の涙を流しながらハデス様へと歩み寄り、その逞しい胸にそっと、しかし力強く抱きつきました。
「ハデス様……! 私はどこにも行きません。
……いいえ、行きたくなどありませんわ!
私はこれからも、貴方様とどこまでも……
いえ、永遠に一緒におります。愛する、貴方様と共に……っ!」
「……っ! ペ、ペルセポネ……?」
ハデス様は驚愕に息を呑み、己にしがみついて泣きじゃくるペルセポネ様を、まるで壊れ物を扱うかのように震える手で受け止めました。
そのまま呆然とした面持ちで、天照大神様の方へと顔を向けられます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
ペルセポネ様の柘榴の呪縛を天照大神様が焼き尽くし、別れを覚悟して自由を与えたハデス様でしたが、まさかの熱烈な逆プロポーズで胸に飛び込まれて完全フリーズしております。
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