第120話
「ふふっ、今度ぜひ、日の本に参りたいですわ! ヘラ様のお話しを聞いて、私も心から思いましたの。
……今まで、夫の浮気相手やその子供を物理的に破滅させてきたのは、私の間違いだったのだ、と気づきましたの」
笑顔のままさらりと恐ろしい過去の神話を振り返るアンピトリテ様でしたが、その瞳には、かつての嫉妬の狂気ではなく、日の本の洗練に裏打ちされた新たなる「女王の覚醒」の兆しがはっきりと灯っていました。
「ぜひ、わたくしも、ヘラ様のように完璧にプロデュースしていただけませんでしょうか?!
日の本の理というものを、この身で掴み取ってみたいのですわ!」
「お、おお……」
ポセイドン様の顔から完全に血の気が引いていくその横で、ハデス様だけは静かにワイングラスを傾けておられました。
ハデス様の脳裏には、昨夜、素戔嗚尊様のスマートフォンで見せてもらった、ゼウス様が青筋を立てた日本の女神たちに抱きついて鼻の下を伸ばしているあの滑稽極まりない画像が、鮮やかに蘇っていました。
「……くっ、ふふ……」
厳格なる冥王は、次に「型」に嵌められるであろう哀れな弟の未来を予感し、笑いを堪えきれぬように、静かにその広い肩を小刻みに震わせていたのでした。
「ふふっ! アンピトリテ様。ヘラ様をプロデュースしたのは、こちらの天照ですじゃ」
イザナミ様が、アンピトリテ様に向けて艶やかに微笑みました。
「かく言う妾もな、この天照にプロデュースされましてのう。
それはそれは面白く、痛快なプロデュースをしてくれますぞ!」
「オホンッ!」
そう紹介された天照大御神様は、襟元を正すようにして、わざとらしくひとつ咳払いをされました。
「まっ、まっ、本日はディオニュソス様と、妾達の可愛いアリアドネちゃんのめでたい門出じゃ。
その話はまた次の機会に、ゆっくりと……そして、たっぷりといたしましょうぞ!」
天照大御神様がまぶしい太陽のような笑顔を向けると、その「たっぷりと」という言葉の重みに、ポセイドン様は完全に生きた心地がしないといった様子で硬直してしまいました。
隣のゼウス様も、すでにその過酷な理を身を以て知っているだけに、もはや言葉もなく「ああ、兄者よ、貴方もか……」と諦観の態を全身から醸し出しています。
その最高神たちのあられもない狼狽ぶりを前にして、ハデス様と素戔嗚尊様は、テーブルの端で視線を交わし合いました。
ギリシャの厳格なる冥王と、日の本最強の常識人たる闘神。
二柱の頼れる漢たちは、「やれやれ……」と言わんばかりの風情で、静かに、しかしどこかお互いの苦労を労い合うように、優しく微笑み合っていました。
ポセイドン様は額に浮かぶ冷や汗を拭うことも忘れ、なんとかこの恐ろしいプロデュースの話題から話を逸らそうと、必死の形相で声を絞り出しました。
「ひ、日の本から届いたというあの酒を、まずは皆で注ぎ合おうではないか! 主役を待つ間の喉を潤すにも、これ以上の品はあるまい!」
必死に話題を変えようとする夫の姿を、アンピトリテ様はすべて見透かしたように、妖艶で余裕たっぷりの笑みを浮かべて見つめます。
「ふむ。それもそうじゃの。……ア・ナ・タ、妾に注いでたもれ」
「お、おお、喜んで……!」
ポセイドン様は救われたとばかりに、大急ぎで日の本の木箱から一本の美しい瓶を取り出しました。
その様子を見ていたイザナミ様が、静かなツッコミを入れます。
「ふむ。まだ新郎新婦がきておらぬが、先に乾杯をしてしまっても良いのかのう?」
核心を突く大母神の言葉でしたが、今のポセイドン様にはそれを気にする余裕など微塵もありません。
ただただこの場を凌ごうと必死な夫と、それを見てクスリと楽しむアンピトリテ様。
「では、少しだけ味見をさせていただきましょうか」
海の王妃が美しく差し出したクリスタルの盃に、すっきりと磨き上げられたガラス瓶から、透明な液体がトトト、と清らかな音を立てて注がれました。
ラベルには、日の本で広く愛される酒名が力強く躍っています。
アンピトリテ様がその盃をそっと唇に運び、ゆっくりと口に含んだ刹那――彼女の美しい瞳が、驚愕に大きく見開かれました。
「まあ……! なんと素晴らしい……!」
アンピトリテ様は言葉を失い、喉を鳴らしました。
ギリシャの濃厚な葡萄酒とは全く異なる、まるで雪解けの水のように清らかでいて、米の洗練されたふくよかな甘みと果実のような華やかな香りが、五臓六腑をじんわりと満たしていく圧倒的な透明感。
「ポセイドン……あなた、よくぞこのお酒に目をつけましたわ。
この清らかな海の底の湧き水のようなお味……
私の魂まで洗われるようですわ!」
海の王妃がうっとりとその余韻に浸る姿を見て、ポセイドン様は「そ、そうだろう!」と、ようやく生きた心地を取り戻したように誇らしげに胸を張りました。
その横では、ゼウス様が「……あれは美味かったな……」と、日の本での苦い(しかし美味しかった)記憶を思い出して遠い目をしていました。
ポセイドン様の指示により、オリュンポスの神殿に並ぶ各テーブルへと、日の本の名酒が次々と配られていきました。
新郎新婦を待つ間の歓談用として、広場を埋め尽くすギリシャの神々へとなみなみと注がれていきます。
濃厚な葡萄酒の理に生きてきた神々にとって、その雪解け水のようにどこまでも透明で、ふくよかな果実の香りを放つ美酒は、未知の衝撃でした。
一口含むたびに「おお……っ!」「これは何という清らかな雫だ!」と感嘆の声が上がり、会場全体がこれまで見たこともないような、どこまでも温かく穏やかな祝福の空気に包まれていきました。
全能の神々が武器を置き、ただ純粋に美味を分かち合っている、そんな奇跡のような時間の最中。
神殿の入り口から、広間全体に響き渡るような、一条の透き通った声が響きました。
「お姉様――っっ!!」
その声を耳にした瞬間、イザナミ様と天照大御神様は、お猪口を傾けていた手を止め、パッと弾かれたように神殿の入り口へと視線を向けました。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
アンピトリテ様のプロデュース志願に怯えるポセイドン様が日本酒で必死に場を凌ぐ中、神殿の扉が開き、主役であるアリアドネちゃんが登場します。
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