第114話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「はあー。しかし……ここまで涙腺が崩壊した姉貴を見るのは、生まれて初めてかもしれねえな。
ディオニュソスの酒の神としての力か……。
ただ心を酔わせるだけじゃねえ、抱え込んだ緊張の芯まで綺麗に溶かしちまうとは。
しかも仮にも日の本の最高神だぜ?!姉貴は。
今更ながら、恐ろしい力だな!」
日の本の闘神としての目が、異国の神の、底知れぬ力量に少なからぬ感嘆を寄せていた。
そのやり取りを横で聞いていたアリアドネは、グラスを持ったまま、驚きを隠せずにその瑞々しい瞳を丸くしていました。
「…… そ、そんな凄い神様が……私なんかにプロポーズを……?!
しかも、あんなに一生懸命、心を込めて作ったワインを置いていってくださるなんて……」
支配や躾という古い因習に一度は怯えたアリアドネでしたが、天照大御神様の涙が証明した「ディオニュソス様の嘘偽りのない、心を丸裸にするほどの誠意」を知り、その胸の奥がじんわりと、熱い感情で満たされていくのを感じました。
これほどまでに自分を大切に想い、不器用ながらも日の本の理を学ぼうと足掻いている神がいる。
アリアドネは、手元に残る美しく澄んだルビー色の葡萄酒を愛おしそうに見つめながら、次にあのお方がこの家の扉を叩くその時を、小さな胸の高鳴りと共に心待ちにするのでした。
そして次の日――。
ディオニュソス様は新たに極上の葡萄酒を仕込み、今度はその酒に合う最高の肴を探しに、ひとりで街へと出掛けていました。
すでに日の本の食材には深い信頼を置いていた彼でしたが、いざアリアドネや女神たちを唸らせる一品となると、どれを選べば良いのか、これぞという決定打が見つからずにいます。
そんな中、歴史ある風情が残る鎌倉の街並みを静かに歩いていると、ふわりと漂ってきた深みのあるコーヒーの芳しい香りに惹かれ、とある小さなお店へと足を踏み入れた。
棚を眺めていた葡萄酒の神の目が、ある一角でピタリと止まります。
そこには、数種類の厳選された海外仕込みのチーズ、美しくパッケージングされた生ハム、そして艶やかに光るオリーブの瓶詰めが並んでいました。
「――これだ!」
ディオニュソス様は、それらを自ら味わう前にもかかわらず、直感的に確信しました。
これらは、自分が心血を注いで醸造したワインの、あの華やかで深い果実味を、これ以上ないほど完璧に引き立てる最高の相棒たちだと。
日の本の日常の風景の中に溶け込んでいた、ヨーロッパの至高の恵み。
迷わずそれらを購入した彼は大切に腕に抱えました。
その足で、七里ヶ浜の海岸沿いにある白い家へと向かいます。
先日の失態と恐怖が頭をよぎり、胸をドキドキと高鳴らせながら、ディオニュソス様は緊張した手で静かに玄関のチャイムを押しました。
静かな足音が近づき、ゆっくりと扉が開きます。
そこに立っていたのは、素戔嗚尊様でも、冷たい目を向けたイザナミ様でもありません。
「いらっしゃいませ。ディオニュソス様」
アリアドネでした。
彼女はその瑞々しい頬をほんのりと桜色に染め、かつての恐怖に怯える姿ではなく、一人の凛とした、しかしどこか恥ずかしそうな少女の笑顔で、葡萄酒の神を真っ直ぐに迎え入れてくれたのです。
「あっ……! ああっ……アリアドネ」
ディオニュソス様は驚きのあまり声を詰まらせました。
まさか、自分を怖がっていたはずのアリアドネ自身が玄関を開けてくれるとは夢にも思っていなかったのです。
その不意打ちに、葡萄酒の神としての余裕はどこへやら、顔を真っ赤に染めて視線を床へと落としてしまいました。
「デッ、ディオニュソス様……!」
そんな彼のあまりにも初々しく、困惑した様子を見て、アリアドネもまた、釣られたように顔を瞬時に真っ赤にして下を向いてしまいました。
玄関先で、お互いに真っ赤な顔のまま俯いて固まる若い2人。
そんな様子を後ろから覗いていた素戔嗚尊様が、やれやれと笑いながら歩み寄ってきます。
「ほらほら! そんなとこでじっとしてないで、入った入った!」
素戔嗚尊様がポンとディオニュソス様の背中を押し、二人を促すようにリビングへと連れて行きました。
リビングの扉を開けると、昨日までのあの凍りつくような険悪な空気はすっかり消え去っていました。
イザナミ様は、こちらと直接目は合わせてくれないものの、手元のお猪口を愛おしそうに見つめながら、静かに、優しく微笑んでいます。
天照大御神様も、白いワンピースを揺らしながら、悪戯っぽく見守っていました。
促されるままに、二人はリビングのテーブルへと並んで腰を下ろし、ぽつり、ぽつりと歓談を始めます。
「あっ、アリアドネ。本当に……本当にすまなかった。
私はそなたを苦しめるつもりなど、毛頭なかったのだ。
むしろ、テセウスのあの酷い仕打ちから、そなたをこの手で救い出そうとしていたのだが、そのっ……
私の傲慢が、またそなたを苦しめることになってしまっていたのだな」
ディオニュソス様は、抱えていたチーズや生ハムの包みをテーブルに置き、今度は上から取り仕切る王の目線ではなく、一人の男神として、真っ直ぐにアリアドネの目を見つめて本心を吐露しました。
「いえっ……! ディオニュソス様。貴方のお気持ち、本当に嬉しいです」
アリアドネは優しく首を振り、ほんのり上気した顔で微笑みました。
「日の本に来てから、イザナミ様や天照大神様、素戔嗚尊様があまりにも私に優しく接して下さっていたので……。
私、いつの間にかそれが当たり前になってしまっていたのですわ。
貴方の言葉に一度は驚いてしまいましたが、私のことをそこまで案じて、守ろうとしてくださっていたこと、昨日のワインをいただいて、心の底から伝わりましたの」
アリアドネの手が、テーブルの上でディオニュソス様が持ってきた新しいボトルの表面にそっと触れます。
理不尽に培われた不器用な愛と、温かい日常で育まれた健やかな愛情。
二つの心が、今度こそ同じ目線の高さで、静かに響き合い始めていました。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
勇気を出して再訪したディオニュソス様を出迎えたのは、まさかのアリアドネちゃん本人。玄関先で揃って顔を真っ赤にしてフリーズしてます。
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