第113話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「まあ……もう、あの二人に任せておけば悪いようにはならないでしょうな。
テセウスと違い、彼のアリアドネちゃんへの愛は本物のようですし」
素戔嗚尊様が小さくグラスを傾けながら呟きます。
「そのようじゃのう。
しかし、あのいつも人を食ったようなディオニュソスが、まさかここまであの子を好いておるとはのう」
「……むっ!
この子鯖とやら、ワインにも日本酒にも合うのう!実に美味い!」
ヘラ様は炙りたての小鯖を品良く口に運び、その凝縮された海の旨味と塩気に美しく目を輝かせました。
そして、手元に残る極上のワインを一口含み、うっとりと息を漏らします。
「はあ……夫がそなたのような誠実な男であったなら、妾はどんなに幸せであったか……」
「お、お戯れを、ヘラ様……。汗」
あまりに直球な女王からの言葉に、さしもの素戔嗚尊様も冷や汗をかきながらタジタジになっています。
「戯れじゃよ…。けど、このような楽しくも自由を謳歌しうる空間じゃ、少しは戯れてもよかろう!」
ヘラ様はケラケラと愛嬌たっぷりに笑い声をあげ、お猪口を素戔嗚尊様へと軽く向けます。
お互いに一途にパートナーを愛する身だからこそ、通じ合うものがあるのでしょう。
日の本の闘神とギリシャの王妃は、不思議と気候の合う湘南の風の中で、どこまでも楽しげに言葉を弾ませていました。
「あーっ!! 素戔!! 小鯖を妾にもよこさぬかーーっっ!!」
アリアドネへの真面目な「最後の砦」の話を終えた途端、天照大御神様がリビングのテーブルをバンと叩いて立ち上がり、素戔嗚尊様に詰め寄ります。
「ぬっ! 素戔よっ! それは抜け駆けというものじゃぞ?!」
イザナミ様も、漆黒の目をらんらんと輝かせ、お猪口を握りしめて素戔嗚尊様をちろっと睨みます。
「えーっ?! お姉様方、さっきからここに大皿で置いてるのに、全く興味なさげだったじゃねーか!」
素戔嗚尊様は空になった皿を両手で掲げ、本気で心外だと言わんばかりに声をあげました。
「ヘラ様と俺で、綺麗に食っちまったよ!」
「なっ……なっ……なんじゃとーーーー?!」
天照大御神様は、まるでこの世の終わりでも迎えたかのように目を見開きました。
その細い肩を激しく震わせ、見る見るうちにその瑞々しい瞳に大粒の涙がたまっていきます。
「わっ……妾が……どれだけ小鯖を……
たっ、楽しみにしていたのか……
そなたは分かっているかと……!
先日、江ノ島でじっと干されておる時から……
ずーーっと目を付けておったのじゃぞぉーー!!」
「うわーーーーん!!」
まさかの日の本の最高神、天照大御神様が大号泣。
あまりのボルテージの高さに、隣にいたヘラ様も
「えっ、ええ?!」
と持っていたグラスを落としそうになります。
アリアドネは「あわわ……天照様、泣かないでくださいっ!」
と大慌てでおしぼりを差し出しています。
「わ、わーーかったよ! 今すぐ作るから待ってろ!」
素戔嗚尊様は袖を大きくまくり上げると、大慌てでベランダの炭火へと向かいました。
「えっ?! まだあるのかえ? クスン……」
天照大御神様は袖で涙を拭いながら、赤くなったお鼻を小さく鳴らしました。
いつもは太陽の力を宿す最高神たる御方が、おつまみ一つでこれほどまでに感情を露わにすることはあり得ません。
「おおっ! 分かったぞ! ディオニュソスの酒が、天照様の心を丸裸にしてしもうたのじゃ!」
その時、手元に残ったグラスを見つめていたヘラ様が、はっとしたように声をあげました。
ヘラ様が言うには、葡萄酒の神であるディオニュソス様の生み出す至高の酒には、飲む者の頑なな心をほぐし、優しく包み込んで素直にさせる効果があるのだといいます。
ましてや今回のボトルは、彼が己の傲慢さを深く悔い、愛するアリアドネのために文字通り心血を注いでデキャンタージュした、珠玉の一雫です。
それだけの本物の誠意がこもった酒だったからこそ、天照大御神様の心に深く染み渡ったのです。
「何があっても、もう二度とアリアドネちゃんとお姉様を傷つけさせたりするものか!」
日の本の神として、そして愛する姉と妹分を守る「最後の砦」として、天照大御神様は誰よりも強い決意で張り詰め、緊張されていました。
その断固たる緊張の糸を、ディオニュソス様の優しいワインがそっと、温かく解きほぐしたからこその、大号泣だったのでしょう。
「ほらっ! 姉貴、お姉様、できたぜ!」
そこへ、素戔嗚尊様がうちわをパタパタと仰ぎながら、炭火でパチパチと完璧なキツネ色に炙り上げたばかりの小鯖を大皿に載せて戻ってきました。
香ばしい磯の香りと干物の脂の匂いが、リビングいっぱいにふわりと広がります。
「ううっ……素戔っ! 美味いのう……! 美味いのう!!」
天照大御神様は、運ばれてきたばかりの熱々の子鯖を頬張りながら、またしても大粒の涙をこぼしていました。
赤くなった目元を拭い、素朴で力強い旨味を心底嬉しそうに噛み締めています。
素戔嗚尊様は、そんな姉のあまりにも珍しい姿を少し心配しつつも、どこか面白そうに笑みを浮かべて見つめていました。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
「最後の砦」として気を張っていたはずが、ディオニュソス様のワインで警戒心をすっかり溶かされ、楽しみにしていた小鯖を食べ尽くされてまさかの最高神大号泣。
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