第111話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
ディオニュソス様は、砂浜を踏みしめながら、イザナミ様のあの言葉を何度も、何度も脳内で反芻しました。
『それが愛じゃ、と妾が申せば、そなたは幸せなのかえ?』
いくら愛だと言い張られても、あの日の本の大母神から放たれた、魂を凍りつかせるような絶対的な恐怖を植え付けられるのは絶対に嫌だ。
そして、それと全く同じことを、守るためという大義名分のもとでアリアドネにやってしまった自分の身勝手さが、たまらなく気に入らない。
「…なんだ。なんてことはない話じゃないか!」
ディオニュソス様は自らの額をパチンと叩きました。
「つまり、自分がやられて嫌なことを、アリアドネにするなと言っているだけだ!
なんでそんな、人間の子供でも知っているような簡単なことが、私にはわからなかったのだ?!」
神の理だの、世界の秩序だの、そんな大仰な言葉で武装していた自分が急に滑稽に思えてくる。
「愛とは言え、一方的に押し付けるのではない。
イザナミ様がこうして身を以て私に気付きの機会を与えてくれたように……
目線を合わせて話し合えばいいだけだったんだ!」
そもそも私は、葡萄酒という至高の雫をもって、神であれ人であれ、あらゆる生ある者の心を潤し、喜びの宴を開くことを至上の使命としてきたはずではないか。
それなのに、なぜ肝心のアリアドネに対して、それができなかったのか。
神であろうが人であろうが、美味しいものを食べて、美味しいお酒を飲んで、幸せだと感じる。
その気持ちの本質は、何も変わらないというのに。
「そうと分かれば、こうしてはいられない!」
葡萄酒の神の瞳から、迷いも恐怖も完全に消え去っていました。
今度こそ、一人の男神として、彼女たちの待つ場所へと向き合う覚悟が定まりました。
ディオニュソス様は近くの酒屋へと走り、譲り受けた数本の空ボトルをきれいに洗いました。
そして心を落ち着かせ、自らの権能をすべて注ぎ込むように、至高の葡萄酒を丁寧にデキャンタージュしながら慎重にボトルへと移します。
雑味を完全に排し、これまでにない極限のクオリティに達したワインのボトルを大切に抱え、再び七里ヶ浜の白い家の門を叩きます。
素戔嗚尊様が顔を出すかと思われたが、ガチャリと玄関を開けたのは、イザナミ様その人でした。
「何用じゃ?」
その漆黒の目は、いまだ冬の海のように冷たい。
「あっ、その……私の、お詫びの気持ちを皆様に。そして何よりも、アリアドネにその気持ちを伝えたく、この酒を持って参りました」
ディオニュソス様は、一人の女性の愛を乞う誠実な一人の男として、頭を下げてボトルを差し出しました。
「ふむ……しばし待つが良い」
イザナミ様はボトルを一瞥すると、家の奥へと引き返していきました。
少しの間の後、戻ってきた彼女は静かに告げます。
「そなたに会うのが、怖いそうじゃ。……帰るが良い」
意気揚々と覚悟を決めてやってきたものの、あっさりと、そして決定的に断られてしまいました。
ですが、今のディオニュソス様は、そこで逆上したり諦めたりするほど浅はかではありませんでした。
「そっ……それでは! この酒だけでも……アリアドネや、皆様で召し上がってください!」
せめて心尽くしの味だけでも届けたいと必死に手を伸ばしましたが、イザナミ様はなおも訝しげな目を向けたままでした。
そこへ、ようやく奥から素戔嗚尊様が姿を現しました。
「おおっ! わざわざすまねえな!
今日はまだ無理そうだが、俺からアリアドネちゃんに渡しておくよ!」
素戔嗚尊様はディオニュソス様の差し出したボトルをしっかりと、優しく受け取ってくれました。
そして、素戔嗚尊様は「今日はまだ」と言ってくれたのです。
ディオニュソス様はその言葉を深く胸に刻み、今日はこれ以上無理強いをせず、素直に引き下がることにしました。
それほどまでに、自分は彼女を怖がらせ、その瑞々しい心を深く傷つけてしまったのだ。
ならば、その記憶が少しずつ和らぎ、許してくれるその日まで、何度でも彼女の元へ誠実な足跡を運び、通い続けよう。
「感謝します……!」
素戔嗚尊様とイザナミ様に一礼し、ディオニュソス様はゆっくりと踵を返しました。
夕暮れの湘南の海岸線を歩く彼の横顔には、もう迷いはありませんでした。
己の過ちを受け入れ、大切な人の心と向き合うために、葡萄酒の神は、ようやく本当の意味で前を向いて歩き出したのでした。
「あらっ? どちら様ですか?」
奥の部屋からひょっこりと顔を出したアリアドネが、パタパタと玄関へ歩み寄りながら、イザナミ様にそう問いかけました。
実は、イザナミ様は天照大御神様、そしてヘラ様と事前に入念なしめし合わせをしており、アリアドネには内緒でディオニュソス様をあえて一度、厳しく締め出したのです。
「なに、ただの配達人じゃよ。頼んでおいたワインを届けてくれたのじゃ」
イザナミ様は、何事もなかったかのように穏やかな微笑みを浮かべ、素戔嗚尊様の手にある極上のボトルを指差しました。
どうやらイザナミ様には、思惑があるようです。
もしここで「ディオニュソスが置いていったワインだ」と本当のことを言えば、アリアドネは先日のあの高圧的な態度を思い出し、せっかく取り戻した笑顔を曇らせてしまう。
せっかくディオニュソスが心を込めて作ったワインに拒絶反応を起こしてしまうかもしれない。
それを案じて、あえて訪問者の名前を伏せたのです。
そして何より、あの若き酒の神が、一度断られたくらいで諦めてしまうのか、それとも本当に己の傲慢さを悔い、誠意を持って何度でも通い続ける男なのかを、じっくりと試しているのでした。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
至高のワインを携えて再訪したもののイザナミ様に秒で門前払いされたディオニュソス様。「ただの配達人」にジョブチェンジさせられました。
「まさかのタイトル回収でワイン配達員扱いされてて草」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




