第110話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
待つまでもなく、別荘の扉が静かに開きました。
素戔嗚尊様が真っ直ぐにこちらへと歩いてきます。
(私の気配を察してくれたというのか……)
ディオニュソス様の胸に、ある種の深い信頼に近い、温かい感覚が確かに去来していました。
「よう。少しは元気になったかい?」
素戔嗚尊様はいつもと変わらぬ穏やかな声音で、隣に並びました。
「はい。おかげさまで。しかし……どうしても、答えが出ないのです……」
葡萄酒の神は、力無く首を振ってうなだれました。
己の司る豊穣の理すら見失いそうなほどの苦悶が、その横顔に滲みます。
「俺だって、正解なんか分からねえよ」
「えっ?!」
ディオニュソス様は思わず目を丸くしました。
「しかし、貴方は森羅万象そのもの……、世界を滅ぼすことなど造作もない強大な力がありながら、それを使おうともせず、ただ彼女達を守っている……
いや、彼女達は、貴方に守られているのか?」
「ハハ、まさか! 俺が守ってるのはアリアドネちゃんだけだよ。
他の三柱の女神(天照大御神様、イザナミお姉様、ヘラ様)を守るなんて、そんなこと言ったら『よそでやってくれ!』って大笑いされちまうぜ」
素戔嗚尊様は快活に笑い飛ばしました。
「そっ……そう、ですよね。しかし、彼女達は貴方に勝るとも劣らない、世界を揺るがす力を持ちながら、アリアドネを守って……
守って……いるのですか?」
ディオニュソス様は、昨日の踏切での無邪気な光景、そして生シラス丼を頬張るアリアドネの姿を懸命に思い返しました。
確かに、アリアドネが窮地に陥れば、日の本の神々は全神威を以て彼女を全力で守るだろう。
しかし、普段の彼女たちの姿は、いつも「守護者」として君臨しているというよりは、力無い友人、いや――。
「いや、愛する子供とただ遊んでいるかのような……あ、あっ!」
刹那、ディオニュソス様の脳裏に、すべてのピースがカチリと音を立てて結びついたようです。
「これは考え方の問題だから、俺はそれが正解だなんて思ってはいないが……」
素戔嗚尊様はポケットから手を抜き、寄せては返す波頭をじっと見つめながら、静かに語り始めました。
「日の本の神ってのはな、人に祀られて、人と一緒に生きて、初めてそこに在る。
お前さんたちの国のように、天の上の高い玉座から一方的に運命を配るんじゃない。
同じ大地を踏みしめて、人が汗水垂らして作った美味い米や、一分一秒の戦いの中で磨き上げた牛丼を、一緒に『美味い、美味い』って笑いながら食う。
それが、俺たちの縁の結び方なんだよ」
素戔嗚尊様はディオニュソス様の肩を、包み込むような優しさで大きな手でぽんと叩きました。
「お前さんはアリアドネちゃんを窮地から守るために、神の絶対性という檻の中に縛り付けようとした。
それが最大の思いやりだったんだろう。
ただ、俺たちの神と人との繋がりは、支配と被支配じゃねえんだ。
力は違えど、魂は対等な友人であり、愛する子供達なんだ。
過ちを犯せば一緒に悩み、悲しいときは一緒に泣き、美味いものを食えば一緒に笑う。
お前さんが、その檻の鍵を自らの手で壊し、だだの男として彼女の隣に立つ覚悟ができたとき……
そのとき初めて、アリアドネちゃんの本当の笑顔が見られるんじゃねえのかな」
その言葉は、森羅万象そのもののような強大な神威を持ちながらも、ただ最愛の奇稲田姫様を一途に愛し、日常を慈しんできた闘神だからこその、深く、どこまでも魂を揺さぶる重みを持っていました。
ディオニュソス様は、素戔嗚尊様の言葉を、一言一言、乾いた砂が水を吸い上げるように胸の奥深くへと染み込ませていきました。
「もう一度断っておくが、俺は日の本の理が正しいだなんて思っちゃいねえ」
素戔嗚尊様は頭を軽く掻き、波の音に負けない乾いた声で言葉を紡ぎます。
「だが、姉貴達は少なくともこう思っているんだろうよ。
可愛い可愛いアリアドネちゃんを悲しませたお前さんが気に入らねえって!ってな。
それが姉貴たちの本音なんじゃねえのかな?」
その飾り気のない一言が、ディオニュソス様の胸をすとんと突きました。
神としての正しさの話しではない。
高尚な思想のぶつかり合いでもない。
ただ、アリアドネを我が子の如く慈しむ日本の女神たちにとって、自分の大切な身内を「所有物」として躾けようとした異国の神のやり口が、単純に、本能的に、たまらなく嫌だったのだ。
「……気に入らない、ですか」
ディオニュソス様は自嘲気味に、しかしどこか晴れやかな笑みをその唇に浮かべました。
絶対の神々が理不尽な感情で人を蹂躙するギリシャの理の中に生きる彼にとって、その「身内を想うがゆえの我が儘」は、驚くほど純粋で、ひたむきな力に見えました。
「実にシンプルですね。ですが……だからこそ、先日のイザナミ様の怒りが、私にはとてつもなく恐ろしくも、実に美しく、そして羨ましく思えてきました」
葡萄酒の神は、優しく明かりを灯す白い家を見つめました。
「素戔嗚尊様、感謝いたします。私はまだ、皆様のように彼女と笑い合う術を知りません。
ですが、あの家に戻り、今度こそ一人の男として、アリアドネと、そして皆様と向き合いたいと思います。
……いや、まずはあのとき私を受け入れてくれた礼を、彼女達に伝えることから始めねばなりませんね」
その言葉を聞いた素戔嗚尊様は、「くっくっくっ」と満足げに肩を揺らした。
「ふふ、その気持ちがあれば、きっと通じるさ」
そう言って日の本最強の闘神は、異国の酒の神の背中を優しく押し出すのでした。
夜の七里ヶ浜に、新たな縁の足音が静かに響き始めようとしています。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
スサノオ様から「姉貴達は単純に気に入らないだけ」という身も蓋もないカウンセリングを受けた酒神が再出発します。
「スサノオ兄貴の人生相談、兄貴の苦労に乾杯」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




