第109話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
食器の下がる音が響く食堂の中、ディオニュソス様はただ一人、席に残されます。
そこへ、最後に残っていた素戔嗚尊様が歩み寄り、ディオニュソス様の肩に手をポンと置きました。
言葉はありません。
しかし、その掌の厚みと温もりこそが、男神としてのこれ以上ない無言のエールでした。
素戔嗚尊様が静かに去っていく足音を見送りながら、ディオニュソス様は手元のお猪口に視線を落とします。
残された透明な酒の水面に、自分の情けない顔が映っています。
『それが『愛』じゃ、と妾が申せば、そなたは幸せなのかえ?』
イザナミ様の言葉が、胸の奥で何度も、何度もリフレインしています。
神と人の隔たり。
同じ目線というイザナミ様の言葉。
自分が正しいと信じ込んでいた支配の形。
まだ答えは出ない。
しかし、彼の心には、ギリシャの葡萄の蔓では決して編むことのできない、新しき理の種が確かに植え付けられていたのでした。
江ノ島の食堂に一人残されたディオニュソス様の深い葛藤とは裏腹に、表の賑やかな通りへ出ると、ヘラ様がさっそくアリアドネの肩を突いて揶揄い始めます。
「アリアドネや、そなたどうする? あの男は本気のようだぞ?」
「ひっ、ひえぇ……そんな、畏れ多いですわっ!」
アリアドネは一瞬にして顔を真っ赤に染め上げ、両手で頬を押さえて激しく首を振りました。
「おや? 嫌なのかい?」
ヘラ様がいたずらっぽく片眉を上げると、アリアドネはますます慌てて視線を泳がせる。
「いっ、嫌だなんてそんな……ただ、どうしたら良いのかまだ分からず……」
「さようか……ならば、あんな男ふっておしまい!」
「えっ? えっ? いっ、いやです!」
「ぷっ! 正直じゃのう、お主は!」
ヘラ様が思わず「ぷっ」と吹き出すと、隣を歩いていた天照大御神様も身を乗り出して興味津々で尋ねました。
「おおっ! そうなのかえ、アリアドネちゃん! ふふ、これは目が離せなくなってきたねぇ!」
一歩後ろから歩いていたイザナミ様が、穏やかな声で二人の会話に言葉を添えた。
「アリアドネちゃんや、まだほだされてはいかぬぞ?
妾達が男どもにどんな目に遭わされてきたか、よう覚えておるであろう?
焦ることはない。
あやつが己の傲慢さに気づき、本当にそなたを一人の存在として見つめることができるようになるか、しっかりと見極めるがよい。
妾は、いつでもアリアドネちゃんの味方じゃからな」
その言葉には、男神の理不尽を経験してきた大母神だからこその、深く、どこまでも温かい愛情が満ちていました。
アリアドネは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じ、顔を上げて力強く頷きます。
「はいっ。お姉様。私、ちゃんと見極めますわ!」
日の本の神々の無条件の愛と、女王であるヘラ様の心強い言葉に勇気付けられ、アリアドネの瞳には一人の女性としての凛とした光が宿っておりました。
ディオニュソス様はホテルの一室に戻ると、上着も脱がぬままベッドの端に腰掛け、頭を抱え込みます。
「私が愛だと思ってやったことは、彼女を傷つける行為だったのか……」
窓の外からは、穏やかな湘南の波の音が一定の律動で聞こえてきます。
だが、彼の脳内はその音を掻き消すほどの暴風が吹き荒れていました。
「いや、しかし……彼女を守るためには、神の理を教え込み、完璧に躾けることが正しいはずだ。
神々が気まぐれに放つ雷霆や呪いから、か弱い人間を匿うには、それしか……」
必死に己の正当性を探そうと、言葉を紡ぎます。
しかし、その思考の行く手を、江ノ島の食堂で突きつけられた大母神の言葉が、鋭く遮りました。
『妾は主をこの日の本の理が分かるまで、徹底的に其方を蹂躙し、過酷な『躾しつけ』を施す。
それが愛する其方ためじゃ。
そなたはもちろん文句一つ言わずに妾に従うのてあろうのう?』
「……っ」
ディオニュソス様は短い息を呑み、己の細い両腕を見つめます。
イザナミ様が向けたあの、世界の底に引きずり込まれるような絶対的な死の恐怖。
あれを「愛」だと言われて、自分は受け入れられただろうか。
いや、恐怖で五感を麻痺させられ、ただ平伏することしかできなかった。
「私は……、アリアドネに恐怖を与えていたのだ……」
守るため、という大義名分で覆い隠していた支配の構造。
それはアリアドネを一人の尊い存在として見つめるものではなく、自分の庇護下に縛り付けるための傲慢な鎖に過ぎなかったのではないか。
日の本の最高神たちが、一人の人間の少女を輪の中心へ招き、共に笑い、共に同じどんぶりを突き合わせて美味を分かち合う、あのどこまでも眩しく微笑ましい光景が、再び脳裏に鮮やかに蘇ります。
「神と人が、同じ目線で……」
ギリシャの葡萄の蔓を育てる豊穣の神は、生まれて初めて、自らの神話が築き上げてきた理の厚い壁に、自らの手で亀裂を入れようとしてました。
夕暮れの手前の柔らかい光が窓から差し込む中、ホテルの静かな一室は、葡萄酒の神が抱える終わりなき葛藤と、新しき理への苦悶に、重く深く埋め尽くされてゆくのでした。
「……そうだ、私には、とても良い手本がすぐ近くにいるではないか」
ベッドから顔を上げたディオニュソス様は、身を挺してイザナミ様の激昂から自分を守ってくれた、あの優しい日の本の闘神の姿を思い出しました。
素戔嗚尊様はそれからも、この静かなホテルを手配してくれて、昨日は自らを女神たちの輪へとそれとなくひき合わせてもくれた。
どこまでも不器用な自分を、静かに見守り続けてくれているあの漢なら、何かを知っているかもしれない。
「彼に、相談してみよう」
意を決したディオニュソス様はホテルを出て、潮風の吹く海岸線を歩いた。七里ヶ浜の白い別荘が遠くに見える位置にまで移動し、物陰で静かに素戔嗚尊様を待ちました。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
「あんな男ふっちゃいなさい」と揶揄われ、即座に「いやです!」と本音を叫んでしまうアリアドネちゃん。一方、己の愛がただの支配だったと猛省したディオニュソス様は、頼れる兄貴であるスサノオ様へ弟子入り(相談)する気のようです。
「『ふっちゃえ』からの『いやです!』即答草」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




