第108話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
ディオニュソス様は手元のお猪口をじっと見つめ、重い口を少しずつ開きました。
「今更言い訳にしか聞こえないかもしれないが……
ギリシャでは、神の怒りに触れた人間がどうなるか、皆様はご存知でしょうか。
人が神に対して不始末をしでかせば、即座に凄惨な粛清が待っている。
だからこそ、自分の所有物として彼女を娶り、完璧に『躾ける』ことこそが、
彼女を他の神々の気まぐれな怒りから守る唯一の正しい生き方であり、愛なのだと、
私は本気でそう信じています」
海の風が窓から吹き込み、彼の葡萄の蔦を飾った髪を小さく揺らぎます。
「だが……貴女様方を見て、それがわからなくなったのです。
アリアドネが生き生きと、そして貴女方も本当に楽しそうにアリアドネと一緒に過ごしているのを見て、私の独善であったのではないかと感じました。
ただ、それ以前に、私に神としての傲慢さがあったのは事実です。
それが、先ほど彼女に詫びた理由です」
ヘラ様は静かに頷き、その美貌に複雑な色を浮かべました。
「確かに……そなたの言うことにも一理あるのう。
オリュンポスの苛烈な理のなかで、
この男なりにアリアドネを案じておったのは事実じゃろうのう…」
隣に座るアリアドネは、自分に向けられた神のあまりにも不器用で真っ直ぐな「愛の告白」に、耳の裏まで真っ赤に染め上げて俯いています。
「ふむ。なるほどのう」
イザナミお姉様は、空になったお猪口をトントンとテーブルに叩きながら、深く息を吐き出しました。
その瞳からは先ほどの凍りつくような殺気は消えていましたが、依然として大母神としての鋭い光が宿っています。
「そなたが他の者と同様に、アリアドネちゃんをただの戦利品などのように考えていたわけではないことは分かった。
……じゃが、まだ気に入らぬな」
イザナミ様はディオニュソス様を真っ正面から見据えました。
「なぜそなたは、アリアドネちゃんに上から命令するのじゃ?
なぜ愛するものと、おだやかに同じ目線で語り合おうとせなんだ。
守るためなら強いるのが当然と、なぜそう思い込んでおる?
なぜじゃ? 答えてみよ」
その問いは、今まで全く疑うことのなかった「神の絶対性」そのものの根幹に、鋭く、優しくディオニュソスの胸に突き刺さるものでした。
「同じ目線で……ですか? 神と……人が?」
ディオニュソス様は、まるで聞いたこともない異国の呪文でも耳にしたかのように、呆然と言葉を繰り返しました。
その美しい顔には、純粋な困惑だけが広がっています。
「考えたこともありませんでした。
神が人の上に君臨し、その運命を支配する。
それが我々の世界の絶対の理……。
同じ目線で語らうなど、想像すら……」
「さようか…」
イザナミ様は、お猪口を弄んでいた指先をぴたりと止めました。
その漆黒の瞳が、深く、静かにディオニュソス様を射抜きます。
「ならば、主と妾は対等か?」
「たっ、対等な訳がございませぬ!」
ディオニュソス様は、椅子がガタリと鳴るほどの勢いで身を震わせ、必死に首を振りました。
「なぜ私如き一介の神が、この巨大な日の本という国の大母神様と対等などと言えましょう。
貴女様の放つ神気は、世界の理そのもの。
私など、一瞬で消し去ることも容易なはずです」
「さようか……」
イザナミ様はふっと息を漏らし、哀れむような、しかしどこか試すような冷ややかな笑みを口元に浮かべました。
「ならば、今より妾の慈愛を授けてしんぜよう。
妾は主をこの日の本の理が分かるまで、徹底的に其方を蹂躙し、過酷な『躾』を施す。
それが愛する其方ためじゃ。
そなたはもちろん文句一つ言わずに妾に従うのてあろうのう?」
「そっ……それは……」
ディオニュソス様の言葉が詰まりました。
喉の奥が引き攣り、背中に冷たい汗が伝います。
昨夜、全身を襲ったあの死者の囁きと、息もできないほどの恐怖が脳裏に蘇ります。
そんな支配を「愛」として押し付けられ、甘んじて受け入れることなど、神としてのプライドが、いや、一人の存在としての本能が拒絶します。
言葉を失い、ただ唇を震わせる若き神を見つめながら、イザナミ様は最後の一句を、静かに、しかし決定的な重みを持って突きつけました。
「それが『愛』じゃ、と妾が申せば、そなたは幸せなのかえ?」
海の風が、食堂の窓をガタガタと小さく揺らしました。
ディオニュソス様は、自分がアリアドネに強いようとしてきた言葉の、そしてギリシャの理が内包する圧倒的な「理不尽」の正体を、今、自らの身を以て突きつけられていました。
「イザナミ様、それくらいにしてあげてくださいまし」
静まり返ったテーブルで、ヘラ様がそっと言葉を挟まれました。
その瞳には自国の若き神を憐れむような、しかしどこか見守るような光が宿っています。
「妾達の国では、それが当たり前でした。
この子はそうやって育ってきたのです。
妾かて、あなた様方とお会いせなんだら、いまだに退屈な夫に嫉妬をして、自らの楽しみなど見いだせなんだ」
ヘラ様のその言葉には、真の自立を遂げた女王だからこその重みがありました。
ゼウス様を恐怖のどん底に落とし、自分の人生を自らの足で歩み始めた彼女だからこそ、古代の理に縛られたディオニュソス様の頑なさがよく分かるのです。
ヘラ様はまっすぐにディオニュソス様を見据えました。
「ディオニュソスよ。イザナミ様よりきっかけは与えられた。あとは、己1人で考えてみよ」
「……っ」
「さて、妾達は参りましょう」
ヘラ様が凛とした仕草で立ち上がると、天照大御神様もイザナミ様も、それ以上は何も言わずに静かに席を立たれました。
アリアドネは真っ赤になった頬を隠すように、それでも去り際に一度だけ、ディオニュソス様を心配そうに振り返り、一行の後に続きました。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
「ならば妾がお前を蹂躙し躾けてやろう、それが愛なら幸せか?」と突きつけたイザナミ様。ヘラ様の助け舟とアリアドネの心配そうな視線を背に、酒神は自問することになります。
「イザナミ様になら躾けられてみたい」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




