第106話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
(あっ……あのヘラ様が……っ?!)
電柱の物陰からその様子を盗み見ていたディオニュソス様は、驚愕のあまり息を呑みました。
あのオリュンポスの冷酷なる絶対の女王、嫉妬と威厳の塊であったヘラ様が、あんなにも柔らかく、心から楽しげに笑っています。
それだけではありません。
日の本の最高神たちたる天照大御神様やイザナミ様が、ただの人間の少女であるアリアドネと肩を並べ、これ以上ないほど無邪気にこの日常を楽しんでいるのです。
ギリシャでは天地がひっくり返っても見ることができない、とてつもなく微笑ましく、そして温かい光景。
その眩しさが、ディオニュソス様の胸をきゅっと締め付けました。
(……まるで、娘を愛する母親のようではないか……)
支配や教育、躾といった理でしか人と接することを知らなかった葡萄酒の神の心が、ほんの少しだけ、春の雪解けのようにほぐれていくのを感じておりました。
しかし、同時に彼は思います。
(だが、ここは日の本だからそんなことができるのだ……)
神が絶対の権力を示さねば、秩序が崩壊してしまう苛烈な故郷の理を思い出し、寂しげに眉をひそめます。
それでもなお、ディオニュソス様の瞳は、アリアドネが弾けるような健やかな笑顔を咲かせているその奇跡のような光景を、いつまでも見守っていたいと強く願い始めました。
江ノ島の活気溢れる店先にたどり着いた一行は、氷の上にずらりと並んだ瑞々しい魚介類を覗き込んでいます。
観光客の人混みに紛れながら、その様子をじっと伺っているディオニュソス様。
すると、素戔嗚尊様が視線を合わせぬまま、指先をチョイチョイっと動かして、建物の2階へと続く階段を指差しました。
その意図を察したディオニュソス様は、人波をすり抜けて一足先に2階の食堂へと上がりました。
お品書きの文字を見ても何を頼めば良いのかよく分からず、ただ目立たないように一番隅っこの席へと腰を下ろします。
しばらくすると、階下で大量の海産物を購入した一行が、賑やかな足音と共に上がってきました。
離れた席に座る一行を見守る中、素戔嗚尊様はディオニュソス様にもはっきりと聞こえるような通る声で、店員へ注文を告げました。
「じゃあ、生シラス丼を5つ! あ、それとヘラ様はスプーンを使った方がいいですよ!」
その言葉は、まるで目の前のヘラ様へ向けた世間話のようでありながら、箸に慣れていないディオニュソス様へ向けた助け舟でした。
「……お、同じものを一つ。……スプーンも、お願いします」
ディオニュソス様は小さく息を吐き、小声で店員にそう注文した。
「わーい! 生シラス丼、久しぶりですわ!」
アリアドネの弾んだ声が、潮風の吹き抜ける食堂に響き渡ります。
その隣で、ヘラ様は運ばれてくる未知の丼を想像して、少し眉を寄せていました。
「生シラス……本当に大丈夫なの? あのような小さな生の魚を、米の上に載せて掻き込むなど……」
ヘラ様がほんの少し警戒心が頭をよぎるものの、天照大御神様もイザナミ様も
「これがまた絶品なのよ!」
「生姜を少し利かせるとな、たまらぬぞ」
と、全く気にする様子がありません。
その誰もが疑わない確信に満ちた笑顔を見ているうちに、ヘラ様もまた、胸の奥で新しい美味への期待がふつふつと膨らみ始めました。
離れた席のディオニュソス様もまた、日の本の神々が楽しみに待つその「生シラス丼」という未知の結晶が運ばれてくるのを、固唾を呑んで待ち構えていました。
生シラス丼がひと足先に一行の元に運ばれてきます。
どんぶりの上で、朝獲れたてのシラスたちが陽の光を浴びて、まるで透き通る水晶のように美しく輝いています。
「いただきまーす!」
アリアドネは元気よく手を合わせると、勢いよくシラスとご飯を口へとかき込みました。
「んんーーー! 美味しいーーー!」
ぎゅっと目を閉じ、両手で瑞々しい頬を押さえて、全身でその美味しさを表現してます。
「テセウス様も、この生シラス丼の美味しさを知らずに帰っちゃうなんて、可哀想すぎますわ!」
可哀想、という言葉とは裏腹に、そのお顔は「私の方が先に美味しいものを知ってしまった」と勝ち誇ったようなドヤ顔になっています。
「うむ、まこと不憫なやつよのー!」
「ふふ、あの男もまだまだ修行が足りなかったのじゃろうのう」
天照大御神様とイザナミ様も、そのアリアドネの愛らしい様子に声を上げて笑いました。
しかし、ヘラ様だけはまだ目の前の生の小魚の群れを前に、どうしても最初の一歩を踏み出す勇気が出ないようで、じっとどんぶりを見つめて硬直してます。
そこへ、素戔嗚尊様が店員から受け取った予備のスプーンを、そっと差し出します。
その小さな器の上に、温かいご飯を薄く敷き、爽やかな緑の大葉を載せ、その上に艶やかな生シラスを数匹、まるで一流の割烹の一品料理のように小綺麗に飾り付けてみせました。
「まあ……まるで海の宝石のようだこと……」
そのスマートなエスコートにヘラ様はすっかり機嫌を良くされ、躊躇いなくパクッと口に運びました。
「なっ……! なんと新鮮な潮の香りと、海の恵みよ!
この、ツルリとした喉越しの中に、濃厚な甘みが隠されているのですね!」
ヘラ様は目を丸くして感動すると、先ほどまでの躊躇いが嘘のように、自らスプーンを動かしてむしゃむしゃと食べ進め始めました。
女王は着実に大衆食文化の虜(B級グルメ仲間)へと進化?を遂げています。
そして、その直後、一番隅の席に座るディオニュソス様のもとにも、生シラス丼が届けられました。
隣の楽しげな声を耳にしながら、ディオニュソス様は震える手で、小皿の生姜を醤油に溶かし、どんぶりの上へと恐る恐る回しかけました。
そして、スプーンで掬い上げた白米とシラスを、パクッと一口、口へと滑り込ませます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
食堂の隅っこ席から、アリアドネの眩しい笑顔とB級グルメに完全陥落していくヘラ様を盗み見るディオニュソス様。
「隅っこの席でこっそり同じメニュー頼んでる酒神もはやストーカーと化してる」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




