第102話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
「ふう……ディオニュソス。そなた、少し大人しくしておれ」
ヘラ様が静かに、しかし逆らいがたい重みのある声音でそう告げると、ディオニュソス様は怪訝そうな顔をしたものの、その威厳に押されるようにして口をつぐみました。
「すまぬ。アマテラス様、イザナミ様、素戔嗚様。
この男はまだ日の本に来て日も浅く、アリアドネへのあなた方の寵愛がわかっておらぬのじゃ。
妾に免じて許してやってはくれぬか」
ヘラ様は女王としての気品を保ちながら、東の果ての神々へ向けて、真摯に頭を下げました。
ゼウス様を恐怖のどん底にハメ落としたあの過酷な強さは形を潜め、今は自国の若き神の無知を庇う、心強いギリシャの女神筆頭としての顔を覗かせていらっしゃいます。
「ふむ。さようよな。ヘラ様がそうおっしゃるのなら、妾達も納得しよう」
イザナミ様が穏やかに微笑みます。
「ではアリアドネちゃん。ギリシャの流儀で、妾達にディオニュソス様の酒を振る舞っておくれ」
「はい! お姉様!」
アリアドネは曇りのない笑顔を咲かせ、本当に嬉しそうに返事をしました。
そして、素戔嗚尊様に手伝ってもらいながら、ルビーのように輝く極上の葡萄酒をみんなのグラスへと手際よく注ぎ分けていきます。
その様子を座ったまま眺めているディオニュソス様は、未だになぜヘラ様がそのように仰せられたのか、全く理解できていない様子でした。
ギリシャにおいて、神とは絶対の支配者であり、人とはただ平伏し、もてなすだけの儚い存在。
その二つの間にある天と地ほどの隔たりは、彼にとって呼吸をするのと同じくらい当然の理だったのです。
それゆえに、日の本の神々が、一人の人間の少女をこれほどに愛し、慈しみ、その笑顔を守ろうとする世界の温かさが、まだ彼の脳裏には結ばれていませんでした。
「おおっ! これはなんと芳しいワインじゃ!」
「ほんにのう! この艶やかで深い紅……たまらぬのう!」
天照大御神様とイザナミ様は、グラスに注がれた葡萄酒を口に含み、その圧倒的な芳醇さに声を弾ませました。
どこまでも洗練されたワインに日の本の神々が心底感心している様子を見て、ヘラ様もまた、誇らしげに嬉しそうな笑みを浮かべています。
「こりゃうめえや!」
「はい! 本当に美味しいですねっ!」
アリアドネと一緒に皆へお酒を振る舞い終えた素戔嗚尊様も、自分のグラスを傾けながら、アリアドネと顔を見合わせて無邪気に喜んでいました。
しかし、当のディオニュソス様は、その光景を苦々しい表情で見つめ、不服そうに眉をひそめていました。
しばらくの間、リビングの和やかな空気に耐えるように沈黙していましたが、ついに、とうとう言ってはいけない言葉を口走ってしまったのです。
「アリアドネ! なぜそなたが我が酒を飲んでいる!
そなたは皆様方に酒を給仕せねばならぬのがわからぬのか!」
その鋭い叱責が、せっかくの楽しい宴の席に冷酷に響き渡りました。
重苦しい沈黙が流れる中、ヘラ様は左手を額に当てて、深く、深くため息をついていました。
「そなた、少し黙らぬか……
妾が先ほど、わざわざとりなした理由がまだわからぬのか?!」
ヘラ様の声音には、呆れと怒りが混ざり合っています。
しかし、天照大御神様とイザナミ様は、何も言わずに沈黙したまま、静かに視線を落とされていました。
その静寂こそが、日の本の主神たちの哀しみを物語っています。
「もっ……申し訳ございません……」
アリアドネは持っていたグラスを震わせうつむいてしまいました。
日の本でたくさんの愛と美味に包まれ、せっかく取り戻した健やかな笑顔が、一瞬にしてかつての恐怖によって塗りつぶされようとしていました。
「はっ! たっ、大変失礼いたしました。
思わず声を上げてしまい、申し訳ございません。
今後このようなことがないよう、アリアドネをしっかりと躾けますので、どうぞご容赦ください」
ディオニュソス様は、日の本の主神たちの沈黙を「無礼な人間を同席させたことへの不快感」だと完全に誤解し、本当に申し訳なさそうに深く頭を下げました。
しかし、その親切心と気遣いの方向性は、日の本の神々が最も大切にしている部分と、決定的に、大きく掛け違っていました。
「そなた……本当に黙らぬか!!」
ヘラ様は額から手を離し、ディオニュソス様に向けて、はっきりと鋭い怒気を示しました。
その美しい瞳が、自国の若き神のあまりの察しの悪さに燃え上がっています。
「ヘラ様、申し訳ございません。私が至りませんでした。先に申し述べておくべきでした」
ディオニュソス様はヘラ様の怒りをもアリアドネの不手際のせいだと思い込み、そのまま跪くようにしてアリアドネを見つめました。
「アリアドネよ、そなた我が妻となるがよい。
そして、このようなことがないように、私がしっかりと教育してやろう!」
その突然の求婚と、当然のように続く「教育」という支配の言葉に、アリアドネは「えっ?!」と目を見開いて硬直しました。
リビングの壁際では、素戔嗚尊様が「あっちゃあ……」という顔で、頭を抱え込んでしまっています。
隣に立つ大国主様も、静かに目を閉じて、来るべき嵐の気配に諦観を深めていました。
そしてヘラ様もまた、この男がよりによって最も踏んではならない地雷を、満面の笑みで全力で踏み抜いたことを悟り、
「何を言っても、もう取り返しがつかぬわ……」
と、絶望を隠せずに深く、深く頭を抱えてしまいました。
日の本の最高神たちの沈黙は、いよいよ静かに、その深みを増していこうとしていました。
天照大御神様は、それまで手の中で揺れていたワイングラスを、テーブルへと静かに置きました。
カツン、という小さな硬い音が、凍りついたリビングに不気味なほど鮮明に響きます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
ヘラ様の必死のフォローも虚しく、アマテラス様がグラスを置く「カツン」という音が響き、無自覚な酒神への過酷なお説教の幕が静かに上がろうとしてます。
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