第10話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
周囲のネオンやラグジュアリーな建物の輝きに圧倒されながらも、アリアドネはしっかりと地に足をつけ、ドレスの裾を揺らして進んでいました。
しかし、ある交差点を曲がった瞬間、彼女の足がピタリと止まりました。
どこからともなく風に乗って漂ってきたのは、これまでに嗅いだことのない、しかし野生の五感を激しく揺さぶるような、強烈に食欲をそそる香ばしい香調でした。
じっくりと煮込まれた肉の旨味と、甘やかな玉ねぎの香り、そして何とも言えない独特の出汁の香りが混ざり合い、空腹だった彼女の鼻腔を容赦なくくすぐります。
アリアドネの瞳が、ふらふらと誘われるようにその香りの源へと向きました。
天照大御神様たちが「おや?」と引き止める間もなく、彼女は夢遊病者のように引き寄せられ、歩き出してしまいます。
人混みをすり抜け、彼女がたどり着いたその先。
銀座の一角で燦然と輝いていたのは、現代の日本の日常にあまりにも深く溶け込んだ、あの鮮やかな「オレンジ色の看板」のお店でした。
ガラス越しに見えるのは、大きなお鍋から立ち上る白い湯気と、手際よく丼に肉を盛り付ける店員たちの姿。
そして、先ほどから彼女の心を完全に捉えて離さない、あの圧倒的な香りが、自動ドアの隙間から贅沢に溢れ出ていたのです。
最高級のドレスを身にまとい、神々のエスコートを受けながら、異国の王女アリアドネが最初に行き着いたのは、日の本の誇る至高の庶民派グルメ、牛丼屋さんの門前だったのでした。
ハッと我に返ったアリアドネは、店の前に立ち尽くしている我が身に気づき、急に顔を真っ赤にしました。
「あっ……すみません。勝手に身体が動いてしまって……。でも、あまりにも良い香りで、つい……」
恥ずかしそうに身を縮めるアリアドネ。しかし、そんな彼女の様子を見た天照大御神様は、呆れるどころか、お腹を抱えて大笑いされました。
「ふふふっ、あははははっ! アリアドネちゃん! そなたの鼻は非常に優秀じゃぞ?! この日の本が世界に誇る『B級グルメ』に目を付けるとは、素晴らしいセンスじゃ!」
そして、隣に立つイザナミ様もまた、看板の奥から漂う香りにうっとりとした表情を浮かべ、何度も小さく頷いておられました。
「ほんに……ほんになんと、妾の食欲を刺激する香りよのう。妾のいた神代や、あの昏い黄泉では、まことに想像もつかぬ香りじゃ……。お腹が鳴ってしまいそうじゃ」
「お二人とも、本当にセンスが良い!」
天照大御神様は我がことのように誇らしげに胸を張ると、ビシッとお店の扉を指差しました。
「よし。では皆で牛丼を食すとしましょうか。素戔よ、妾たちをエスコートせよ!」
「よしきた! ではお三方。こちらへどうぞ!」
素戔嗚尊様は、銀座の高級ブティックの時と変わらぬ紳士の所作で、オレンジ色の看板の店のドアを開けました。
カウンターやテーブル席が並ぶ賑やかな店内に、霧の衣をまとった青、白、黒のドレス姿の美女三人と、体躯の素晴らしい紳士が滑り込みます。
席に案内されるや否や、素戔嗚尊様は店員に向かって、実に気風のいい、慣れた声を響かせました。
「まずは、生ビールだ!あっ俺はウーロン茶で!」
牛丼の香ばしい匂いが立ち込める店内で、これから始まる新たな現世の美味の宴。
アリアドネは、運ばれてくるであろう冷たい生ビールと、あの香りの正体である牛丼に、ワクワクと胸を高鳴らせていました。
ガラスのジョッキに注がれた黄金色の液体と、その上で真っ白に盛り上がるクリーミーな泡。
冷気でうっすらと結露したグラスが、店内の明かりを反射して美しくきらめいています。
4人はそれぞれジョッキを手に持ち、掲げ合いました。
「それでは、イザナミお姉様とアリアドネちゃんの現代日の本への歓迎として……乾杯!」
スーツ姿の素戔嗚尊様が、低く頼もしい声で乾杯の音頭をとりました。カチン、と心地よいガラスの音が店内に響きます。
「ビール……とな。ふむ、酒なのじゃな? どれ……」
イザナミ様はドキドキしながらジョッキを唇に当て、そっと喉を鳴らしました。
その瞬間、炭酸の心地よい刺激とホップの爽やかな苦味が口いっぱいに広がります。
何千年も黄泉の国で渇いていた大母神の身体に、現世の極上の喉越しが染み渡っていきました。
「……っ! と、とまらぬ!」
あまりの美味しさに、イザナミ様は息を継ぐのも忘れてお酒を飲み進めてしまいます。
アリアドネもまた、ギリシャの濃密なワインとは全く違う、黄金色に輝く未知の飲み物を見つめていました。
「いっ……いただきます。ごくっ……!」
喉を鳴らして飲み干した瞬間、鼻に抜ける爽快感と、五臓六腑に染み渡る冷たさに、アリアドネの目が見開かれました。
「はわぁー……!」
裏切りの絶望や旅の疲れが、その一口で綺麗に洗い流されていくかのような、至福の吐息が漏れ出します。
天照大御神様は、そんな二人の幸せそうな顔、そしてビールの美味しさに目を輝かせる様子を隣で眺めながら、「ふふっ、最高に良い飲みっぷりじゃ!」と我がことのように大喜びされていました。
二人が生ビールの魔力にすっかり酔いしれています。素戔嗚尊様は時間差で店員へと声をかけました。
「大盛り、汁だく! ぎょく(生卵)に、味噌汁、四つ!」
慣れた手つきで、牛丼の旨味を最も贅沢に味わえる至高の組み合わせを注文する素戔嗚尊様。
ビールの心地よい余韻が残るテーブルに、いよいよアリアドネが恋い焦がれた、あの強烈に食欲をそそる香りの正体が運ばれてこようとしています。
「おっと。ビールがもうなくなっちまったな。ビール三つ追加!」
素戔嗚尊様は女神たちの空になったジョッキを見落とさず、すぐさま店員へ威勢よく追加を頼みました。
そうしている間に、湯気をもうもうと立ち昇らせた「頭の大盛り、汁だく」の牛丼が、四人の前にうやうやしく並べられました。
甘辛く煮込まれた牛肉と玉ねぎが、温かいご飯の上にこれでもかと敷き詰められ、あの官能的な香りが一気にテーブルを支配します。
日の本の「箸」という二本の棒を見て、どう持ってよいか戸惑うアリアドネ。
そんな彼女の様子にいち早く気づいたのは、やはり素戔嗚尊様でした。
「アリアドネちゃん、ほら、このスプーンとフォークを使うといい」
彼は卓上から、現代の人間が使う金属製のスプーンとフォークをそっと手渡しました。
どこまでも気配りの行き届いた紳士の振る舞いに、アリアドネの心はまたしても温かい感動で満たされます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
銀座の高級ブティックで最高級ドレスに身を包んだはずの女神たちが、アリアドネちゃんの野生の嗅覚に導かれ「オレンジ色の看板の牛丼屋さん」へ。
「アリアドネちゃんどんだけ腹減ってたんだ?」、「『大盛り汁だくギョク!』は正義だよね」と思った方は【評価(★)、ブックマーク登録】をお願いします。




