56 フォルティカ《番犬》
アルはかつてないほどの激情に呑まれていた。
相対するケルベロスは瘴気を液体のように撒き散らしながら、弧を描くようにしてゆっくりと歩を進めている。
そのケルベロスが涎を落とすたび、地面がジュッと音をたてて黒い煙をあげる。
それがおそらくリラを傷つけた正体だ。
そのことに気がついたアルはさらに怒りを強くする。
「アル、三合だ。それで勝負を見極めろ。その三合で勝ち筋が見つからないようなら退く。トードもそのつもりでいろ」
トードはフォークスの言葉に頷く。
死ぬ気でいけと言われると思っていたせいか、フォークスの言葉でトードは冷静さを取り戻した。
トードが落ち着きながら浅く深呼吸をする姿を見てフォークスはトードからアルに視線を移す。
しかしアルは頷きも返事もしない。
歯を食いしばり睨みつける様は、まさに目の前にいるケルベロスそのものだった。
「アル、返事をしろ。おい!」
「ぁああああああ!」
フォークスの静止を振り切ってアルは単身ケルベロスに突っ込んだ。
もちろんケルベロスの首の一つは常にアルを見ていたため、アルの攻撃に遅れをとることはない。
『ガゥ!』
ケルベロスはアルの飛び込みざまの突きを躱すことなくあえて額で受け止めた。
ジュッ
「ぐ!」
「下がれアル!」
飛び下がったアルの拳は黒い煙をあげながら皮膚を溶かしている。それを見たアルの怒りは益々強くなる。
「お前が、リラを傷つけた。お前が、お前がー!!」
「っ! トード! アルを掩護するぞ! ただし深入りし過ぎるな!」
「わかりました!」
アルは傷つくことを厭わずに拳を振り続けた。ケルベロスもアルの行動に嫌気を感じているのか、受け止めるだけでなく前脚の爪と獰猛な牙で応戦する。
致命傷だけは本能的に避けるアルだが、かすり傷程度は気にすることもなく戦い続ける。
しかしアルの皮膚はケルベロスの瘴気で確実に穢され、みるみるうちに黒く澱んでいった。
フォークスとトードは一定の距離を保ち、アルに集中攻撃がいかないように掩護するので精一杯だ。アルが冷静に連携をとればここまで慌てることもなかったかもしれないが、それを今悔やんでも仕方がない。
「トード! 俺も距離を詰めるがお前はアルのサポートに徹しろ!」
「わかりました! 俺だって毎回アルに丸焦げにされたおかげで水魔法が得意になったんだ! アクアスラッシュ!」
トードの水刃がアルを襲うケルベロスの瘴気を打ち消す。そして距離を詰めるフォークスにも瘴気が降り注ぐが、フォークスを包む燃え盛るようなオーラがそれをかき消す。
さらに燃え盛るオーラは大剣をも包むと、紅蓮の剣としてケルベロスの首を襲う。
「ふっ!」
ザシュ
『グゥガァ――ッ』
今まで手応えのなかったケルベロスがはじめて悲鳴のような鳴き声をあげたが、フォークスの表情は優れなかった。
「アル! 俺の技でこの程度しか傷つけられんのなら勝ち目はない! 退くぞ!」
フォークスはケルベロスの虚をついて渾身の一撃を放ったが、それでも致命傷には至らなかった。次はより警戒され、同じ技を喰らわないだろう。
フォークスにとって大事な事はアルに納得させる事だった。
そのために勝てなくても三合だけという指示を出したが、既に何合手合わせしたかわからない程にアルは打ち込み続けている。
だがアルの手数でもフォークスの技でもケルベロスを弱らせることはできない。勝てないと判断したフォークスは冷静に退却の糸口を探る。
トードもそれを理解し、瘴気溜りを打ち消すように水魔法を繰り出しているが、アルだけはそれを理解しようとしない。
「フォークスさん! このままじゃ!」
「わかってる! お前はそのまま退却の道を守ってくれ! アルは無理やりにでも連れ帰る!」
フォークスは再びオーラに身を包んでケルベロスに駆け寄る。
だが、ケルベロスはこの時を待っていた。
この中でもっとも強敵であるフォークスを手っ取り早く始末する方法。
それは今までの戦いでケルベロスは十分に理解していた。フォークスという人間は勝てないとわかっていても仲間を置いて逃げ出さない正義感の持ち主であると。
だからこの男は決して仲間を見捨てることができない。たとえ自らが傷ついたとしても。
ケルベロスはフォークスの踏み込みに合せて二つの口を大きく開けた。その口からは獰猛な牙が見えるが、今の脅威はそれではない。
口の奥では赤黒い何かが渦巻いている。
そしてその矛先はアルとトードのふたり。残りの真ん中の首はフォークスの踏み込みを迎え撃つように口を開いて待ち構えていた。
「犬の分際で!」
フォークスは踏み込みをあきらめ横っ飛びでアルとの距離を詰める。そして大剣を逆手に持ち替え、投擲の構えを取りながらアルの前に躍り出る。
その狙いは、トードを狙うケルベロスの頭。
『ガガァ――!!』
キーン
フォークスの投擲は、首を捻ったケルベロスの咆哮に相殺されて大きく弾け飛ばされた。そのおかげでトードを狙う咆哮は防がれた。
そしてアルもまた、フォークスのオーラが盾となり、赤黒い咆哮から守られた。
「フォ、フォークス、さん」
ただ、ケルベロスの首は三つだ。
そしてケルベロスはフォークスがどう動くかをよく理解していた。
「なんで、俺なんかを……」
フォークスの胴には、三つ目の頭が噛み付いていた。そしてその頭は、フォークスに噛み付きながらアルを嘲るように目を細めて笑っている。
「に、げ……ろ」
「フォークスさん!」
一瞬の硬直のあと、フォークスの言葉に合せてトードが名を呼びながら飛びかかった。
アルの頭上を飛び越えて剣を振りかざすトードに、今度は二つの首が迫る。
しかしトードはあきらめない。
冷静に周囲を観察して最善手を探った。
(ここで壁を越えろ! そのためにあの日立ち上がったんだろ!)
トードは出会った日のアルの後ろ姿を思いだす。
夢を終えるはずだったあの日、彼は夢で終わらせないと決意した。
そう決心してから今日までそれほど長い日は過していない。それでも彼は人生でもっとも濃密な日々を送った。
だから彼は手を伸ばした。
怯む事なく、仲間を救う為に。
「アイスエッジ!」
『グゥア――!』
トードの体は赤と青に眩しく輝くと、剣を持たない左手から氷の刃を飛ばした。そしてその氷刃は二つの首を襲い、さらに右手の剣も凍りつかせた。
『ガルァ――』
「フォークスさんを離せ!」
空中からフォークスに噛み付いている頭をめがけてトードは剣を振り下ろす。危険を感じたその頭はフォークスから牙を抜き、上空のトードに狙いを変えるが、トードはそれよりも早く氷剣を突きつけた。
ガスン
『ギュアッ』
トードの氷剣はケルベロスの片目を突き、フォークスの救出に成功した。
しかしケルベロスはその場で体を回転させると、槍のような尻尾でトードの体を打ち付けた。
ズガン
「がはぁっ」
壁まで吹き飛ばされたトードは血を吐き出し、ずるずると地面に崩れ落ちた。死んではいないはずだが、意識はすでにない。
『グルルル』
ゆっくりとトードに向き直るケルベロスの目は憎しみに燃えていた。もっとも侮っていた人間に一太刀浴びせられたのだ。プライドを深く傷つけられたのだろう。
しかし、この場でもっとも怒りに満ちているのはケルベロスではない。
リラを傷つけられただけでなく、フォークスもトードも傷つけられた。
それも、自分の不甲斐なさのせいで。
「……俺が弱いからか? ……違う、違う違う違う!」
アルの中の何かが変わる。
ケルベロスへの怒りは、いつしか自分への怒りに変わった。
だがそれだけでは終わらない。
アルの怒りは、すべての魔物に、すべての迷宮に向けられた。
「お前らがいるから、いけないんだ。お前らさえいなければ、誰も傷つかないんだ。お前らの……すべてを消してやる」
アルの憎しみを込めた言葉に呼応するように、アルの体から黒いオーラが吹き出す。
それは能力のためのオーラではない。
修練によって辿り着くものでもない。
もっと禍々しい何かだ。
そのオーラに危機を感じたケルベロスは三つの頭でアルに噛みつきにかかる。
しかしアルはそれをことごとく拳で打ち返した。
『ギャウッ』
先程までならケルベロスはそれを笑って受けていたが、今はそんな余裕はない。涎には血が混じり、より強い瘴気を一帯に撒き散らした。
三つの首でも打ち勝てないと悟ったケルベロスは先程と同じく仲間を狙って隙をつこうとした。二つの口は大きく開かれ、それぞれ赤黒い渦を口の中で溜め込んだが、次の瞬間には悲鳴に変わった。
バスン
『キャゥン』
アルは右腕をケルベロスの口の中に腕ごと突っ込むと、赤黒い渦を握りつぶして口の中で爆発させたのだ。
そして怯んだ隙に、左腕もケルベロスの口に突っ込んで同じように爆発させた。
そのまま二つの舌を引きずりだされたケルベロスは、叱られて情けなく舌を出している犬のようだった。
その目には先程までの嘲りも怒りもない。
純粋な恐怖だけが写っていた。
残された真ん中の頭は、アルに襲いかかることもできずに震えている。プレッシャーに圧され、息を荒く吐いている姿は先程までなら想像もできない。
だが、そこまで追い詰めてもアルの気は晴れない。ケルベロスの舌を握りしめる両腕は、瘴気のせいだけでなく、不気味に黒く染まっていく。
「消してやる。消してやる。消してやる。消してやる! お前ら全部消してやる!」
アルを包む黒いオーラは一度大きく膨れ上がると、アルが大きく息を吸い込むのに合せてすべて口の中に入っていった。
そしてアルは大きく仰け反りながら歯を食いしばる。
もし、この時の光景をフォークスとトードが見ていれば、どちらが魔物かわからなかったと言うだろう。それほどに、アルのとった行動は異常だった。
「ブレス!!」
ズカガガ――――ン!!!
アルの咆哮はケルベロスの真ん中の首を捉えると、渦を巻いて引きちぎった。
そしてアルの放った咆哮はケルベロスの頭を消し去るだけでは飽き足らず、迷宮の壁を貫いた。迷宮は異空間のはずだが、それすらも貫いて外界と繋げたのだ。
咆哮によって空いた穴から外界の光が射し込む。薄暗い空間に照らされるその光は神秘的なものであったが、アルの心の闇を消し去ることはできなかった。
その後意識を取り戻したふたりはアルの姿を見て言葉を失った。
これが勝利と言えるのかと。
アルの腕と首元には、まるで首輪のような黒い痣が浮かび上がっている。
決して闇から逃さない。
まるで番犬を引き継がされたように、アルの心は囚われたままだった。




