第9話 鳴らない電話
深夜二時、由紀はソファに座ったまま、何度もスマートフォンを開いては閉じることを繰り返していた。
健太の最新のメッセージ――『母さん、検査の結果、ひとまず大きな問題はなかったみたい。
良かった。仕事忙しいだろうから無理しないでね』
――何か返事をしなければと思うのに、指がうまく動かなかった。
部屋の灯りは一つも点けていない。
スマートフォンの画面の光だけが、由紀の顔を青白く照らしていた。
仕事も、恋人も失った今、この部屋には由紀の他に誰もいない。
それなのに、誰かと繋がる手段だけは、こうしてポケットの中にいくらでも残っている。
それが、かえって由紀には皮肉なことに思えた。
「ありがとう」だけでは軽すぎる気がした。
「心配かけてごめん」では、これまでの十年間を埋め合わせるには足りない気がした。
結局、由紀は何度も文字を打っては消し、最後にはスマートフォンを伏せた。
それを、もう何度繰り返しただろう。
ふと、由紀は健太とのトーク画面を、思いきって上にスクロールしてみた。
スワイプするたび、画面の中の時間が、少しずつ過去へ遡っていく。
半年前、『お父さんの誕生日、何か送る?』というやり取り。
一年前、『正月、今年も帰れそうにない』『了解。みんなには言っとく』というやり取り。
二年前、『おばあちゃんの法事、由紀ちゃんも来られたら』『ごめん、その週は仕事で動けない』というやり取り。
遡れば遡るほど、由紀の返信はいつも短く、健太のメッセージはいつも長かった。
由紀が「ごめん、無理」とだけ返している間、健太は毎回、それに対して怒るでもなく、責めるでもなく、ただ「了解」「分かった」「気にしないで」と返し続けていた。
それが、もう何年も続いていたことに、由紀は今更ながら気づかされた。
三年前のやり取りには、台風で実家の屋根が一部破損したという報告があった。
『業者の手配、こっちで全部やっとくから、心配しないで』という健太の一文に、由紀は『ありがとう、助かる』とだけ返していた。
費用の話も、修繕の進み具合も、由紀は一度も尋ねていない。
あの台風のニュースを見た記憶すら、由紀の中にはほとんど残っていなかった。
実家の屋根が壊れている間、自分は東京で何をしていたのだろうと、由紀は今になって思い返そうとしたが、思い出せなかった。
それくらい、当時の由紀にとって、実家の出来事は遠いものだった。
さらに遡ると、健太が高校を卒業した頃のやり取りに行き当たった。
『俺、地元の市役所に決まったよ』という健太の報告に、由紀は『よかったね! おめでとう』とだけ返していた。
当時の由紀は、その報告の裏にある意味を、深く考えたことなどなかった。
健太がなぜ地元に残る選択をしたのか、由紀は一度も尋ねたことがなかったのだと、今になって気づいた。
健太は当時、地元の大学に進学する選択肢もあったはずだった。
それなのに、彼は就職という道を選んだ。
由紀はその頃、自分のキャリアの基盤を築くことに必死で、健太の進路について、両親と電話で話したことすら、ほとんど記憶になかった。
もしかしたら健太は、自分が東京で学費のかかる生活をしている間、せめて自分は家計の負担にならないようにと、その選択をしたのではないか――そんな可能性に、由紀は今、初めて思い至った。
確かめる術はもうない。
ただ、その想像が浮かんだだけで、由紀の胸は鈍く痛んだ。
あの頃、由紀は東京での仕事に必死で、健太の人生の選択を、ただの「弟の進路」程度にしか捉えていなかった。
健太が市役所に決まったのも、家業を手伝うようになったのも、由紀にとっては、自分の生活とは関係のない、遠い場所で起きていることだった。
もう一度、トーク画面をさらに遡る。
十年前、由紀が上京する直前のやり取りが見つかった。
『姉ちゃん、東京、頑張ってな』『うん、ありがとう。健太も、何かあったら連絡して』『うん。……でも姉ちゃんがいなくなったら、なんか変な感じだろうな』
あの時、由紀はこのメッセージに、特に何も返さなかった。
覚えてもいなかった。
健太がどんな気持ちでこの一文を打ったのか、由紀は当時、想像すらしなかった。
十八歳の由紀には、自分の未来のことしか見えていなかった。
健太は、あの時まだ十三歳だった。
姉が家を出ていくということが、十三歳の少年にとってどれほどの意味を持つのか、由紀は今、初めて想像してみた。
両親の関心の半分は、自然と由紀の方へ向いていただろう。
進路の話、東京での暮らし、由紀の将来。
健太は、その隣で、ずっと静かに見ていただけだったのかもしれない。
誰かに構ってもらうことを諦めて、自分から「大丈夫」と言う側に回ることを、いつの間にか覚えてしまった子供だったのかもしれない。
由紀は、画面をスクロールする指を止めた。
健太が地元に残ってから今日まで、両親の通院の付き添い、家の修繕の手配、近所付き合い、法事の段取り――そのすべてを、健太が一人で引き受けてきたのだと、ようやく理解した。
由紀が東京で「何者かになろう」ともがいている間、健太は誰に褒められるでもなく、誰に注目されるでもなく、ただ淡々と、家族という日常を支え続けてきた。
由紀は、自分だけが何かを諦めて東京に出たのだと、ずっとどこかで思い込んでいた。
けれど、健太もまた、何かを諦めていたのかもしれない――地元に残るという選択の中で、健太が手放したものを、由紀は一度も想像したことがなかった。
それは由紀にとって、初めての違和感だった。
自分の苦しみばかりを見つめてきた数か月の中で、ふと、自分以外の誰かの苦しみの存在に、初めて気づいたような感覚だった。
大きな発見というわけではない。
ただ、ほんの小さな、これまで見過ごしてきた事実の輪郭が、今夜、初めて見えただけだった。
けれどその小さな輪郭は、由紀の中で、これまでにない重さを持って居座り続けた。
十年間、自分だけが何かを背負って東京で戦っていると思い込んでいた由紀にとって、それは決して小さな揺らぎではなかった。
由紀はもう一度、健太からの最新のメッセージを開いた。
『母さん、検査の結果、ひとまず大きな問題はなかったみたい』。
由紀は、長い間止まっていた指を、ゆっくりと動かした。
何を書けばいいのか、まだはっきりとは分からなかった。
それでも、今夜だけは、いつもの「了解」や「ありがとう」よりも、もう少しだけ本当の言葉を返したいと思った。
『ありがとう。いつも、ごめんね』
短い一文を打って、送信ボタンを押した。
それだけのことに、由紀はなぜか、ひどく時間がかかった。
送ってしまってから、画面に表示された「既読」の文字を、由紀はしばらく見つめていた。
返信は、すぐには来なかった。
由紀はスマートフォンを胸の上に置いたまま、天井を見上げた。
健太が今、何を思っているのか、由紀には分からない。
それでも今夜、自分が初めて健太に向けて打った、形だけではない一言が、画面の向こうに確かに届いたことだけは、分かっていた。
深夜の部屋に、由紀の小さな呼吸の音だけが残っていた。
完璧に組まれていたはずのダイヤグラムの隅に、由紀がこれまで一度も目を向けてこなかった、もう一本の小さなレールがあったことに、由紀はようやく、気づき始めていた。
それがどこに繋がっているのか、まだ由紀にも分からない。
ただ、見ないようにしてきた線路が、確かにそこに在り続けていたという事実だけが、今夜、初めて由紀の手の中に残った。




