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第8話 帰る場所のない夜

 翔太が出ていった部屋は、思ったより早く「自分一人の部屋」に戻っていった。


 冷蔵庫の中の翔太用の調味料も、玄関の翔太の靴も、一週間ほどで残らず消えた。

 最後に、翔太が「また取りに来る」と言っていた荷物を取りに来た日も、二人は十分も話さなかった。

「元気そうだな」

「うん」

 ――それだけのやり取りで、玄関のドアは静かに閉まった。


 由紀はその夜、リビングの真ん中に立って、部屋を見渡した。

 三年かけて二人で選んだソファ。

 二人で行った旅行先で買った小さなオブジェ。

 翔太が好きだったマグカップ。

 どれも由紀の物のはずなのに、誰の部屋でもない場所に立っているような気がした。


 翌日も、その翌日も、由紀は普段と同じ時間に起き、同じ服に着替え、同じ電車に乗った。

 誰かに見られているわけでもないのに、由紀はその「いつもどおり」を崩すことだけはしなかった。

 崩した瞬間に、自分の輪郭そのものが消えてしまう気がした。


 会社では、地下の資料管理室で過ごす日々が続いていた。

 誰も話しかけてこない。

 指示は社内メールでだけ届く。

 由紀は古い書誌データを一つずつ整理しながら、ふと、自分の十年間がこの部屋の作業と同じものだったのではないか、と思うことがあった。

 誰かが決めた棚に、誰かが決めた順番で並べられ、いつか誰かに必要とされるかもしれないという理由だけで、そこに在り続ける。

 今の由紀は、まさにそういう存在だった。


 昼休みに外へ出ても、戻る場所を間違えそうになる瞬間が何度もあった。

 十年間、当たり前のようにエレベーターで上の階に上がっていた身体の記憶が、地下のボタンを押す手をいつも一瞬遅らせる。

 そのたび、自分が今どこにいるのかを、もう一度確認しなければならなかった。


 ある夜、由紀はベッドに入ったものの、いつまでも眠れず、リビングに戻ってソファに座り込んだ。

 スマートフォンを開く。

 SNSには、かつての同僚たちの近況が流れていた。

 玲奈が「念願の単独企画、無事に校了しました」と投稿し、何十件もの「いいね」がついている。

 コメント欄には「いつも頑張ってる姿、見てました」「さすが玲奈さん」という言葉が並んでいた。

 由紀の半年間が、今は別の名前で世に出ていく。

 それを見ても、由紀の中には、もう怒りさえ湧かなかった。

 怒るための体力すら、残っていない気がした。


 スクロールを続けるうち、由紀は自分が何を求めて画面を見ているのかも分からなくなった。

 誰かが自分のことを心配してくれている言葉を、どこかに探していたのかもしれない。

 そんな言葉はどこにも見当たらなかった。

 誰も由紀の不在に気づいていない。

 あるいは、気づいていても、誰もそれを声にしない。

 それだけのことが、由紀には思いのほかこたえた。


 窓の外、東京の夜景はいつもと変わらず輝いている。

 由紀はそれを見ながら、自分がかつて「完璧なダイヤグラム」と呼んでいたものの正体を、初めて疑った。

 あの灯りの一つ一つが、誰かの努力や信頼の証だと、由紀は信じていた。

 でも今、自分がその一つを失っただけで、灯りは何の関心も示さず、変わらず輝き続けている。

 あれは、誰かを見ていたわけではなかった。

 ただ、そこにあるだけのものだった。


 由紀はベランダに出て、夜風に当たった。

 十年前、初めてこの街に来た日の夜も、似たような灯りを見て、震えるような興奮を覚えたことを思い出す。

 あの時の自分にとって、この光景は希望そのものだった。

 今、同じ光景を見て、由紀の胸に湧いてくるのは、何の感情だろう。

 希望でも絶望でもない、ただの、輝く景色。

 それだけのものに変わってしまったことに、由紀は静かに気づいていた。


 その夜、初めて泣いた。

 声を抑えるつもりもなく、由紀は一人の部屋で泣いた。

 仕事を失ったことが悲しいのか、翔太を失ったことが悲しいのか、自分でも分からなかった。

 ただ、自分がこれまで積み上げてきたものが、全部、特別なものとして誰にも残らなかったという事実だけが、由紀の中で重くのしかかっていた。

 泣き疲れ、由紀はソファに倒れ込んだまま、ぼんやりとスマートフォンを眺めた。

 健太からのLINEが、また一件届いていた。

『母さん、検査の結果、ひとまず大きな問題はなかったみたい。良かった。仕事忙しいだろうから無理しないでね』


 既読をつけたまま、由紀はその画面をしばらく見つめた。

 心配しなくていい、無理しないでいい

 ――健太の言葉は、いつも由紀を気遣う形をしているのに、その気遣いの分だけ、由紀は自分が何もしてやれていないことを思い知らされた。

 今、もし「実は色々あって」と打ち明けたら、健太はどんな顔をするだろう。

 優しい言葉をかけてくれるかもしれない。

 それとも、十年間連絡もしてこなかった姉に、もう何の感情も持っていないだろうか。

 考えれば考えるほど、健太の気持ちが見えなくなり、それ以上想像することをやめた。


 帰ろうか、という考えが、頭の隅にちらりと浮かんだ。

 すぐにその考えを打ち消した。

 帰る、ということは、すなわち負けることだ。

 東京で何者かになるはずだった自分が、何者にもなれずに、尻尾を巻いて田舎に戻る。

 十年前、自分を見送った人たちに、今の自分を見せることなど、絶対にできない。

「やっぱり、あんたには無理だったね」

 ――誰かがそう言うわけでもないのに、由紀の中では、すでに何百回もその声が再生されていた。

 プライドという言葉では足りないほど、「帰らないこと」は、自分の存在を支える柱になっていた。


 由紀は、自分のこの頑なさの根がどこにあるのか、何となく分かっていた。

 高校三年の進路相談の日、担任に言われた

「東京に出なきゃ何者にもなれない」という一言。

 それを聞いた瞬間、由紀の中で何かが決まった。

 あの言葉に従って正しかったと、いつか誰かに、いや、自分自身に証明したかった。

 十年間積み上げてきたものは、その証明のためだったはずだ。


 もし、ここで帰れば、その証明は永遠に未完成のまま終わる。

 何者にもならずに、何者にもなれなかった証拠だけを抱えて、故郷の駅に降り立つことになる。

 その光景を想像するだけで、由紀の胸の奥が、強く締めつけられた。

 仕事も恋人も失っても、まだ「帰らない」という選択だけは、由紀の意志で守れる気がした。

 それすらも手放したら、自分には本当に何も残らない。

 そんな恐怖が、由紀の足を、東京に縫いつけていた。


 けれど同時に、由紀は気づいていた。

 由紀に「東京にいろ」と強制する人間は誰もいない。

 会社も、翔太も、すでに由紀の人生から離れていった。

 今、由紀をこの街に縫いつけているのは、誰の声でもなく、十五年前の自分自身がかけた、たった一言の呪いだけだった。

 分かっていても、その呪いを解く方法を、由紀はまだ知らなかった。


 由紀はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。

 健太の優しさに応える言葉も、母の心配に向き合う勇気も、今夜は出てこなかった。

 ただ、東京の夜の音だけが、いつまでも部屋の外で続いていた。

 サイレンの音、誰かの笑い声、終電に駆け込む足音。

 この街は、由紀が泣いていることに構わず、いつまでも同じリズムを続けていた。


 完璧なはずのダイヤグラムは、もう跡形もなく崩れていた。

 それでも由紀は、その瓦礫の上に、まだ一人で立ち続けようとしていた。

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