第7話 切れた連結器
左遷から一週間が経っていた。
由紀は毎朝、以前と同じ時刻に家を出て、同じ電車に乗り、同じ駅で降りる。
ただ、改札を出た後の足が、フロアではなく地下へ向かうようになっただけだ。
窓のない資料管理室で古い書誌データを整理しながら、由紀はなるべく時計を見ないようにしていた。
時間の流れを意識すると、止まっている自分の輪郭が、よりはっきりと浮かんでくる気がしたから。
地下の仕事は、誰とも話さない。
指示が来るのはメールで、成果を確認しに来る人間もいない。
出版社に入った十年前から、由紀はいつも人と言葉を交わし、著者と向き合い、誰かの反応の中で自分の仕事の手応えを確かめてきた。
その全部がなくなった空間は、静かというより、音そのものを剥ぎ取られているような感覚があった。
昼休み、一人でコンビニに向かう途中、フロアの方角からかすかに笑い声が聞こえてきた。
いつもの、あの空気。
由紀は足を止めずに、そのまま外へ出た。
翔太とはあの日以来、短いメッセージのやり取りしかしていなかった。
翔太の新しい事業部は、当初の予定より早く立ち上がり、連日深夜まで会議が続いているとLINEで伝えてきた。
由紀は仕事が変わったことを、それとなく翔太に伝えた。
「大丈夫か」の一言も添えてあったが、由紀はそれに「大丈夫」とだけ返した。
本当のことを書けるような気がしなかった。
翔太も、それ以上は聞いてこなかった。
土曜の夜、翔太が早めに仕事を切り上げて帰ってきた。
冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、由紀に一本渡しながらソファに腰を下ろした。
テレビはつけなかった。
由紀は、翔太が何かを言いたいのかと感じた。
「ちゃんと話がしたい」
翔太は缶ビールを両手で包むように持ちながら、正面を向いたまま言った。
「聞いてる」
「俺、由紀のこと、ずっと見てたつもりだった。笑わなくなったことも、実家からの電話に出なくなったことも、気づいてた。気づいてたのに……何もしなかった」
由紀は黙っていた。
翔太がこういう話の入り方をするのは、珍しかった。
三年間、翔太が由紀の感情を直接話題に出したことはほとんどなかった。
それが翔太の流儀であり、由紀もそれを心地よいと思っていたはずだった。
今夜のこの話し方は、由紀の知っている翔太とは、わずかに違う。
「なんで何もしなかったかというと……正直に言うよ。あの頃の由紀の張り詰め方、仕事への集中力に変わってた。そういう由紀の方が俺には都合が良かった。踏み込まなかったのは、由紀のためじゃなくて、俺のためだった。それだけが言いたかった」
沈黙が流れた。
窓の外を、ときどき車の音が通り過ぎていく。
「謝りたいわけじゃない。俺の言動に間違いはなかったと思ってる。ただ、由紀には、本当のことを言っておきたかった」
翔太の言葉は、謝罪でも慰めでもなかった。
いつも通りの、正確な事実の報告だった。
由紀はそれが、翔太なりの最大限の誠実さだと分かった。
だから、今夜の話がどこへ向かうのかも、おおよそ見えていた。
「翔太、それを言いに来たんじゃないよね」
「うん」
翔太は缶ビールを一口飲んでから、ゆっくりと言った。
「由紀は今、仕事を失い、居場所も失って、ぎりぎりのところに立ってると思う。そういう由紀に、俺は何もしてやれない。正確に言うと……してやれない、というより、しようとしていない、の方が近い。それは、俺が冷たい人間だからじゃなくて、俺には由紀の本当の傷が、どこにあるのかが分からないからだ」
「本当の傷?」
「由紀が今、苦しいのは、仕事を失ったからじゃないと思う。十年間、何かになろうとして走り続けてきた、その方向が間違っていたかもしれないって、どこかで気づき始めてるからじゃないか。それは、俺が隣にいて解決できることじゃない」
由紀は返す言葉を見失った。
翔太の言葉は、やはり正確すぎる。
傷口の場所を正確に指でなぞられると、痛みより先に、見透かされたような恥ずかしさが来る。
本当の傷はどこにあるのか、と由紀は自分に問い返してみた。
仕事を失ったことか。
玲奈に裏切られたことか。
組織に捨てられたことか。
全部、本当のことだ。
ただ、翔太の言葉が刺さるのは、それだけではない気がした。
十年前に「東京に出なきゃ何者にもなれない」と言われた、あの一言に縛られて走り続けてきた——では、何者かになれたのかと問われたら、由紀は今、何と答えるのか。
「俺と一緒にいる限り、由紀は東京に縛られ続ける。それが今の由紀のためになるかどうか、俺には自信がない」
翔太は続けた。
声は静かで、責めるような色は一切なかった。
「由紀がどこかへ行く必要があるとして、俺はその行き先を、一緒に決めてやれない。俺自身が、この場所から離れられない人間だから。由紀の隣に立ち続けることが、由紀の足かせになるとしたら、それは俺の望むことじゃない」
「それは……翔太の都合でもあるよね」
由紀は、責める気もなく、ただ事実として確認するように言った。
「そうだ。俺の都合でもある。由紀が変わろうとする時に、俺がいない方が、お互いにとって楽だと思ってる。それを綺麗に言うつもりはない」
翔太のその言葉に、由紀は少し息をついた。
この人は最後まで、正直だ。
都合の良いことだけを言って別れを告げる人間ではなかった。
それが翔太の誠実さで、同時に、由紀が三年間隣で見てきた、翔太という人間の全部だった。
「……翔太は、別れたいの」
翔太は少し間を置いた。
「別れたいというより、俺がいることで由紀が立ち止まったまま東京に縛りつけられるなら、それは由紀にとって良くないと思ってる」
「それって同じことだよ」
「そうだな。同じことかもしれない」
翔太は静かに頷いた。
由紀は、涙が出るのかと思ったが、出なかった。
不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
怒りも悲しみも、確かにあった。
ただ、それを翔太にぶつける気には、どうしてもなれなかった。
翔太は嘘をついていない。
由紀を傷つけようとしていない。
ただ、自分には支えられない、という事実を、逃げずに告げに来ている。
最悪な形の別れもある、と由紀は思った。
お互いを罵倒して終わる別れ、どちらかが一方的に去る別れ、すれ違いのまま自然に消えていく別れ。
翔太がやっているのは、そのどれでもなかった。
不都合な本音を隠さず、自分の限界を正確に言葉にして、それでも由紀の行き先を「東京に縛りつけたくない」と言っている。
それを、由紀は卑怯だとは思えなかった。
思えない自分に、ほんの少し、腹が立った。
「翔太って、最後まで正直なんだね」
「それしかできない」
「分かってる」
しばらく、二人とも黙ったままビールを飲んだ。
話すべきことは全部、もう言い終わったような気がした。
由紀は、この沈黙の中に、三年分の時間がしんと沈んでいるのを感じていた。
土砂降りの帰り道、翔太がタクシーを止めた夜。
四十階のフレンチレストランで、翔太が由紀の好きなワインを迷わず注文した夜。
結婚の話を、「フェアな取引」という言葉で切り出してきた夜。
それらが一つずつ浮かんでは、この夜の静かな水底に沈んでいった。
「結婚の話は、白紙で」
由紀から言った。
翔太が少し驚いたように由紀を見た。
「由紀から言うか」
「翔太に言わせるより、その方が気分いいから」
翔太が、初めて今夜、小さく笑った。
由紀も、少しだけ笑った。
翔太は翌朝早くに、荷物の一部を持って出た。
残りはまた取りに来ると言い、玄関で一度だけ由紀を振り返った。
「元気でいろよ」とだけ言い、ドアを閉めた。
ドアが閉まった音が静かに廊下に消えていき、由紀はしばらくそのまま、玄関の前に立っていた。
結婚の話も、将来の設計図も、並走していた二本の列車も、全部この夜に置いていく。
由紀は部屋に戻りながら、自分の足音だけがやけに大きく響くのを感じていた。
泣いてもいいのに、涙は来なかった。
来たのはただ、胸の奥から這い上がってくるような、形のない疲れだった。
長い間、何かに向けて走り続けた足が、突然の終点を前に、どう止まっていいかを忘れてしまったような。
翔太がいなくなった部屋は、音が減ったわけでもないのに、どこか音の通り方が変わった気がした。
由紀はソファに戻り、翔太が飲み残したビール缶を、テーブルの端に置いた。
窓の外には、いつもの東京の朝が始まっていた。
電車の音、遠くのクラクション、近所の店が開く気配。
何一つ変わらない朝の音が、今日だけはひどく他人事に聞こえた。
完璧に組まれたダイヤグラムは、もうどこにもなかった。
ただ、由紀はまだ、次の列車の行き先を、知らなかった。
それだけが、今の由紀に残された唯一のことだった。




