第6話 スケープゴート
翌週の月曜、由紀は人事部の小会議室に呼び出された。
堂島ともう一人、初めて見る人事部の社員が同席している。
テーブルの上には、一枚の辞令が置かれていた。
窓の外は晴れていて、いつもと変わらない月曜の朝のはずなのに、会議室の中だけ、空気の質が違っているように由紀には感じられた。
「先方の出版社からの回答は、まだグレーな部分が残っています。ただ、これ以上揉めると、会社としてもブランドイメージに影響が出るので」
堂島はそう前置きしてから、辞令を由紀の方へ滑らせた。
文芸編集部から、資料管理室への異動。
今日付けで発効、と書かれている。
「資料管理室って……あの、地下の?」
「ええ。当面、書誌データの整理をお願いします。落ち着いたら、また編集に戻ってもらう話もしてますから」
「私が漏洩させたという証拠は、出たんですか」
「いえ、そこは、はっきりしていません」
「じゃあ、なぜ私が異動になるんですか。玲奈じゃなく」
堂島は一瞬、視線を逸らした。
「由紀さんを疑ってるわけじゃないんです。ただ、企画自体に火がついた以上、リスクの低い体制に変えないといけない。玲奈さんがこのまま引き継いでくれる方が、混乱も少ないし、対外的にも収まりがいいというのが、上の判断で」
「上の判断、というのは、堂島さんの判断じゃないんですか」
堂島は答えず、テーブルの上の辞令にもう一度視線を落とした。
人事部の社員が、淡々と署名欄を指で示す。
「サインは義務ではありませんが、いずれにせよ、異動自体は本日付けで決定しております」「私の名前を、ちゃんとクリアにしてもらうことは、できないんですか」
「現時点では、社内的に『継続調査中』という扱いになります。クリアになる、という言い方が正確かどうかは、こちらでは判断できません」
社員の言葉は、どこまでも事務的で、誰の責任にもならないように組み立てられていた。
一つ一つの言葉は間違っていないのに、全体としては、由紀を守る言葉にも、由紀を罰する言葉にも、どちらにも取れる形にされている。
そのあいまいさ自体が、組織が一番得意とする処理の仕方なのだと、由紀は今、初めて肌で理解した。
由紀は、自分が何に抗議しているのか、その対象すら見えなくなっていく感覚を覚えた。
サインするかどうかは由紀の自由だが、サインしなくても異動自体は決定事項だと、暗に告げているような沈黙だった。
由紀はペンを取り、自分の名前を書いた。
手の動きは、思っていたより冷静だった。
会議室を出て、フロアに戻ると、空気がいつもと違っていた。
昨日まで気軽に話しかけてきた同僚たちが、由紀の方を見て、一瞬だけ目を逸らす。
誰かが何かを噂しているのが、見なくても分かった。
情報の出どころは分からないのに、もう「由紀さんが何かやった」という空気だけが、フロア中に薄く広がっていた。
半年前まで、由紀の企画書を覗き込んで「すごいですね」と言っていた人たちの目が、今は由紀を素通りしていく。
席に戻る途中、入社時から世話になっている先輩編集者の声がかかった。
「由紀、大変だったね」
それだけだった。
続く言葉を待ったが、先輩はすぐに自分のデスクへ視線を戻し、何かの作業を始めてしまった。
庇ってくれるとは思っていなかったが、せめて「おかしいと思う」の一言くらいはあるかと、由紀はどこかで期待していた。その期待が、静かに裏切られていった。
唯一、給湯室で由紀を呼び止めたのは涼子だった。
「ねえ、これ絶対おかしいよ。証拠もないのに、由紀だけが飛ばされるなんて」
「ありがとう。でも、涼子に言われても、何も変わらないから」
「分かってる。私にできることなんて、ほとんどない。それでも、おかしいと思ってる人間が一人くらいいるってことだけ、覚えてて」
涼子の言葉には、何の解決力もなかった。
それでも、その一言だけが、今日一日でようやく由紀の胸に温かく残るものだった。
誰も彼もが悪人なわけではない、それでも誰も、自分の立場を賭けてまで由紀の側に立とうとはしない——それが、組織というものの実態なのだと、由紀は静かに思い知った。
玲奈のデスクの周りには、いつもより人が集まっていた。
「新リーダー、おめでとう」という声が、由紀の席まで聞こえてくる。
玲奈は控えめな笑顔で「まだ全然力不足ですけど、由紀さんが積み上げてくれたものを、絶対に無駄にしないようにします」と謙遜していた。
その台詞は、聞いている誰の耳にも、後輩としての美しい忠誠心のように響くだろう。
けれど視線がふと由紀の方に向いた一瞬、その口元がわずかに緩んだのを、由紀は見た気がした。
証拠は何もない。
由紀の中にあるのは、ただの印象と、ビルの裏手の階段で見た、あの低い声の電話だけだった。
それを誰かに訴えたところで、誰が信じてくれるのか、由紀には想像もつかなかった。
午後、デスクの荷物をまとめながら、由紀は四年間付き合ってきた、あの新人作家に電話をかけた。
これまで何度も赤を入れた原稿のことを思うと、せめて自分から先に伝えておきたかった。
「実は今日付けで、担当が変わることになって」
「え……由紀さん、急にどうしたんですか。何かあったんですか」
「会社の都合で。詳しいことは、私の口からは言えないんです」
電話の向こうで、作家がしばらく黙り込んだ。
「由紀さんがいなくなるなら、正直、不安です。次の担当の人、ちゃんと分かってくれる人なんでしょうか」
「玲奈さんが引き継ぐことになりました。彼女も、ちゃんと向き合ってくれると思います」「……由紀さんがそう言うなら、信じますけど」
四年前と同じ言葉を、作家は同じ調子で口にした。
あの時は、信頼の証だった言葉が、今は別れの挨拶のように、由紀の胸を締めつけた。
同じ言葉が、立場が変わるだけで、こんなに違う重さを持つのかと、由紀は電話を切ってからも、しばらくその違いを噛み締めていた。
「でも……会社の決定なら、僕にはどうしようもないですよね」
その言葉に、悪意はなかった。
ただ、由紀を守るために何かをしてくれる人間は、結局、どこにもいないという事実だけが、もう一度はっきりと突きつけられた。
段ボール一箱分の荷物を抱えて、由紀は地下の資料管理室に向かった。
エレベーターを降りると、案内表示の小さなプレートに「資料管理室」とだけ書かれている。窓のない部屋に、古い書誌データのファイルが、壁一面に積まれている。
蛍光灯が一つ、点滅していた。
机の上には、すでに先任者が残していった付箋が一枚、貼られたままになっている。
「PCのログイン情報は総務へ」という、業務的な一文だけが、由紀を迎えていた。
由紀は荷物を机に置き、しばらく、その場に立ち尽くした。
十年間、誰よりも会社に尽くしてきたつもりだった。
深夜までの取材同行も、後輩の育成も、信頼を積み重ねるための努力も、すべて自分の意志で選んできたことだった。
けれど組織にとって、由紀の十年は、リスクを下げるために差し出せる程度のものでしかなかった。
誰かを信じることも、誰かに尽くすことも、由紀にとっては誇りの源だったはずなのに、今この部屋では、その誇りの形すら、誰も覚えていてくれなかった。
完璧に組まれていたはずのダイヤグラムが、今、誰の手も借りずに、由紀自身の意志で書き換えられていくのを、由紀はただ見ているしかなかった。
窓のない部屋の蛍光灯は、それでも律儀に、同じリズムで点滅を続けていた。
誰にも見られていないこの部屋で、由紀は初めて、声を出さずに泣いた。




