第5話 突然のポイント切り替え
月曜の朝、由紀が出社すると、デスクの上に一枚のプリントが置かれていた。
差出人は堂島で、何も書かれていない。
プリントの内容は、ある大手出版社のウェブサイトに掲載された、来期刊行予定の新刊案内だった。
『限界団地、最後の住人たち——取り壊しを待つ建物に生きる人々の声』
タイトルも、団地という舞台も、由紀が一年近くかけて練ってきた企画と、あまりにも似ていた。
構成案として由紀がまとめた章立てとほとんど同じ並びで、章タイトルの言葉選びまで、奇妙に重なっている。
由紀は何度もプリントを読み返した。
何かの間違いだと思おうとしたが、読み返すたびに、その「間違い」であってほしいという願いの方が、無理に見えてきた。
手が、わずかに震えていることに、由紀は遅れて気づいた。
半年以上、深夜まで取材メモを読み込み、何度も書き直してきた企画書だった。
団地の老人たちが、初めて自分の話を聞いてもらえたと涙ぐんだあの取材も、すべて自分一人で積み上げてきた。
それが、由紀の知らないところで、すでに誰かの手のひらの上にあったかのように扱われている。
「由紀さん、ちょっといいですか」
堂島が、由紀のデスクの脇に立っていた。
表情には、いつもの愛想笑いがない。
「これ、由紀さんの企画書と、構成がほぼ一致してるという指摘が、営業部から上がってきてる。先方の出版社、由紀さんの企画書を見たことがあるみたいな書き方なんですよ」
「そんなはずありません。この企画は、社外には一度も出してません」
「だったら、なぜこんなにそっくりなんですか。社内のどこかから漏れたとしか、考えられないでしょう」
由紀は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
社外に出していないのは事実だ。
けれど、社内で——いや、社内の誰かを経由して、外に渡った可能性は、ゼロではない。
会議室に移動すると、堂島の他に、営業部の部長と、もう一人、由紀の知らない法務担当者が座っていた。
三人の視線が一斉に由紀に向く。
説明を求められるまま、由紀は企画の経緯、取材のスケジュール、ファイルの管理方法を順に話した。
話している間も、由紀の頭の中では、あの夜、玲奈に企画書のファイルを渡したことが、何度も浮かんでは消えた。
「念のため確認ですが、企画書のデータは、どういう形で管理してましたか」
「社内の共有フォルダと、自分のノートパソコンです。バックアップも取ってます」
「社外の人間がアクセスできる経路は?」
「ないはずです。VPN経由でしか開けない設定にしてますし……」
答えながら、由紀は自分の声が、徐々に弁解めいた響きを帯びていくのを感じていた。
淡々と説明しているつもりでも、聞いている側には、必死に言い訳をしているようにしか見えていないのかもしれない。
半年間、誰よりも企画に向き合ってきたという自信が、この部屋の中では何の証拠にもならないことを、由紀は今、初めて知った。
「ファイルを共有した相手は?」
「後輩に一部、参考として見せました。社外秘の部分も含めて……」
言いながら、由紀は自分の声が小さくなっていくのを感じた。
法務担当者がペンを走らせる音だけが、やけに大きく響いた。
「その後輩から、外部に漏れた可能性は?」
「分かりません。確認していないので」
会議が終わると、由紀はまっすぐに玲奈のデスクへ向かった。
玲奈は、いつもと変わらない笑顔で由紀を見上げる。
「玲奈、あのファイル、誰かに見せたりした?」
「見せてないです。なんでですか?」
「他社が、似たような企画を発表してて。私の企画書と、構成がほぼ一致してるって」
玲奈の表情が、ほんの一瞬だけ強張った気がした。
けれど、それはすぐに困惑した顔に変わる。
「そんな……私は由紀さんから預かったまま、誰にも見せてません。むしろ、由紀さんこそ、取材先の関係者とか、ほかの編集者さんに見せたりしてないですか? 私の方が心配です」
まっすぐに見つめてくる玲奈の目には、嘘をついているような影が見当たらなかった。
由紀は何も言えなかった。
証拠もなく、後輩を疑っている自分の方が、急に間違っているように思えてきた。
「もし由紀さんが、私のこと疑ってるなら……正直、ちょっと悲しいです。私、由紀さんのこと、誰よりも尊敬してるのに」
その一言に、由紀は思わず謝りそうになった。
玲奈の声には、本当に傷ついたような震えがあった。
「ごめん、変なこと聞いて。気にしないで」
由紀はそう言ってデスクに戻ったが、頭の中では、あの夜、ビルの裏手の階段で電話をしていた玲奈の姿が、何度もよぎっていた。
誰かに何度も頭を下げるような、あの低い声。
確証はない。
ただの想像かもしれない。
それでも、一度浮かんだ疑いは、簡単には消えなかった。
午後、堂島から再び声がかかった。今度は由紀一人だけが、別室に呼ばれる。
「先方の出版社に、確認の問い合わせを入れた。返事が来るまで、この企画は一旦保留にしてもらう。由紀さんも、当面は別の業務に集中してください」
「保留って……あの企画は、来期の柱として進めてきたものです」
「分かってます。だからこそ、慎重に対応しないといけない。由紀さんを守るためでもあるんですよ」
堂島の言葉は丁寧だったが、由紀には、その「守る」という言葉の裏に、由紀を切り離そうとする冷たさが透けて見えた気がした。
何かが、由紀の知らないところで、すでに動き始めていた。
会議室を出てすぐ、由紀は非常階段に出て、翔太に電話をかけた。
声が震えそうになるのを、なんとか抑えた。
「企画、保留になった。他社が似たような企画出してきて、情報漏洩の疑いがあるって」
「漏洩元は分かってるのか」
「分からない。後輩に見せたファイルが怪しいけど、証拠がない」
翔太は少し黙ってから、いつもの落ち着いた声で言った。
「今、感情的になっても意味がない。証拠を集めるのが先だ。共有履行のログとか、メールの送信履歴とか、由紀の方で確認できるものはあるか」
「ログは……まだ見てない」
「なら、今夜中に見ておけ。会社に潔白を証明するなら、由紀自身が一番早く動くしかない」
正しいことを言っている。
分かっているのに、由紀はその冷静さに、わずかに息苦しさを感じた。
今すぐ「大丈夫だよ」と言ってほしかった自分がいたことに、電話を切った後で気づいた。
その夜、由紀はデスクに残り、誰もいないフロアで、もう一度企画書のファイルを開いた。
共有履歴の欄に、見覚えのないアドレスへの転送記録が、一件だけ残っている。
送信者の名前は伏せられていたが、社外のドメインだった。
由紀の手が、画面の前で止まった。
転送日時は、由紀が玲奈にファイルを渡した、ちょうどその翌日だった。
偶然と言うには、あまりに都合がよすぎる。
けれど、この一件のログだけでは、誰が転送したのかまでは分からない。
玲奈のパソコンから送られたのか、それとも別の誰かの手によるものなのか。
確信に近い疑念はあっても、それを誰かにぶつけられるだけの形には、まだなっていなかった。
フロアの窓ガラスに、自分の顔がぼんやりと映っている。
半年間、誰よりも丁寧にこの企画と向き合ってきたはずの自分が、今は容疑者のように扱われている。
その理不尽さに、由紀は声も出せずに立ち尽くした。
明日からの自分が、どんな顔で会社に行けばいいのか、由紀にはまだ分からなかった。
完璧に組まれていたはずのダイヤグラムが、今夜、初めてはっきりと脱線したことを、由紀はようやく認めざるを得なかった。




