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第4話 進行方向の違い

 日曜の夜、由紀と翔太のマンションには、珍しく予定の入っていない静かな時間が流れていた。

 由紀はソファに座り、来週の会議で説明する企画書の余白に、まだ消化しきれない修正点を書き込んでいる。

 玲奈に渡したファイルのことも、堂島の妙な視線のことも、結局あれから一度も確認していなかった。

 考えるべきことは山ほどあるのに、今夜は珍しく頭が働かない。

 テーブルの上の珈琲はすでに冷めていて、由紀はそれにも気づかずに、何度も同じ行を読み返していた。


「由紀、ちょっといいか」

 キッチンから戻ってきた翔太が、向かいのソファに座った。

 手にはノートパソコンではなく、何も持っていない。

 それだけで、由紀は今夜が「いつもの話」ではないことを察した。


「先週言ってた、将来の話、ちゃんとしようと思って」

 由紀はペンを置き、姿勢を正した。

 胸の奥で、小さな高揚が広がる。

 三年間、二人で積み上げてきたものが、ようやく形になる夜だと思った。


「来月、本部長になる。新規事業部の立ち上げは、最初の一年がすべてを決める。正直に言うと、今までみたいに仕事も二人の時間も全部全力で、ってやり方は、もう続けられない」

「うん。それは分かってる」

「だから、結婚しよう。ただ、一つだけ条件というか、お願いがある」


 由紀は黙って頷いた。

 翔太の言葉には、いつも前置きと結論がはっきりしている。

 それが彼の誠実さだと、由紀は思っていた。


「最初の一年だけ、由紀には少しペースを落としてほしい。今の企画が通った後の、編集長争いには出ない方がいいと思う。新しい部署が落ち着くまで、俺の生活を支える側に回ってくれると、正直すごく助かる」

「具体的には、どこまで?」

「残業も出張も、今より減らしてほしい。編集長争いも、今期は見送ってほしい。その代わり、来期は俺が家のことを全部引き受ける。フェアな取引だと思ってる」


 由紀はその「フェア」という言葉に、一瞬引っかかった。

 翔太がそう言うのは初めてではなかったが、今回はその言葉の輪郭が、いつもより硬く感じられた。

 仕事の打ち合わせで使う言葉と、恋人に向けて使う言葉が、今夜は同じ重さで聞こえてくる。


「翔太、正直、新しい部署ってそんなに不安なの? 翔太がそこまで言うの、珍しいから」

 翔太は少し黙ってから、珍しく目を逸らした。

「不安だよ。任されたのは嬉しいけど、失敗したら今までの評価も全部なくなる。今は、誰かに足元を支えてもらわないと、立っていられない気がする」

 その一言で、由紀の中の苛立ちは少しだけ和らいだ。

 翔太にも、由紀の前では見せない弱さがあるのだと知って、由紀は少し嬉しくなった。

 だからこそ、すぐに「無理」とは言えなかった。

 部屋の空気が、少しだけ重くなった気がした。

 由紀は、自分の表情が固まっていないか、一瞬気になった。


「それって……私のキャリアを一年止めろってこと?」

「止めるんじゃない。ペースを落とすだけだ。由紀の企画は、俺がいなくても通る。編集長のタイミングは、来年でも再来年でも、由紀の実力なら問題ない」

「翔太は、自分のキャリアを誰かのために一年止めたことある?」

 翔太は少し黙った後、まっすぐに由紀を見た。


「ない。正直に言うと、今は俺のフェーズの方が、会社にとっても、二人にとっても、伸びしろが大きいと思ってる。由紀の企画が通って、由紀のフェーズが来たら、その時は俺が合わせる。それじゃ駄目か?」

 理屈は通っている。

 むしろ、これまでの二人なら、由紀自身がこういう合理的な判断を好んで選んできたはずだった。

 仕事において、どちらか一方に重心を置いて全体の効率を上げるという考え方は、由紀自身も会議で何度も口にしてきたことだ。

 なのに今、自分がその対象になった瞬間、由紀は自分の中に、思いがけない違和感が広がっていくのを感じた。


 翔太は、由紀の反応を待つように、静かにこちらを見ている。

 その視線の先で、由紀はとっさに「分かった」と言いそうになった自分に気づき、すんでのところで言葉を止めた。

 何かを答える前に、まず自分の中にあるこの違和感の正体を、確かめておきたかった。


 ふと、子供の頃の記憶が浮かぶ。

 父の機嫌に合わせて、いつも自分のやりたいことを後回しにしていた母の姿。

「お母さんはいいの、お父さんが元気ならそれでいいの」と笑っていた母を、由紀は子供心に、少し憐れんでいた。

 あんな生き方は絶対にしない、と誓ったはずだった。

 東京に出て、自分の名前で何かを成し遂げる——それが、誓いの中身だったはずだ。

 母の笑顔は、いつも本物のようで、同時にどこか、削り取られたもののようにも見えた。

 あの笑顔に、自分はなりたくなかった。


 ——これが、本当に自分の欲しかった人生だろうか。

 その問いが、由紀の頭の中に、思いがけないほど鮮明な輪郭を持って浮かび上がった。

 翔太と並んで生きていく未来を、由紀は確かに望んでいた。

 けれど、今この瞬間、自分が望んでいたのは「並んで走ること」だったはずで、「相手のために自分の速度を落とすこと」ではなかった。

 その違いに、由紀は今、初めて気づいたような気がした。


 もし立場が逆だったら、と由紀は想像してみる。

 自分が新しい部署を任され、翔太に「一年だけ、私のために合わせて」と言ったら、翔太は同じように頷くだろうか。

 考えれば考えるほど、その答えは見えなくなった。

 見えないということ自体が、すでに答えのような気もした。

 それでも由紀は、その答えをこれ以上深く掘ることを、自分に許さなかった。

 掘ってしまえば、今夜のうちに何かを失う気がした。


 窓の外を見ると、いつものビルの灯りが見える。

 由紀はその一つ一つを思い浮かべながら、自分にもう一度問いかけた。

 あの灯りの数だけ、似たような選択をしている人がいるはずだ。

 誰もが、何かのために何かを後回しにしている。

 それは敗北ではなく、戦略のはずだった。


 母の場合とは違う。

 母は選ばされていた。

 自分は、今、選ぼうとしている——その一点だけが、由紀がしがみつける唯一の違いだった。

 由紀は静かに息を吐いた。

 今のこの迷いは、ただの一時的な揺らぎに過ぎない。

 翔太の言う通り、これは合理的な判断だ。

 自分が折れるわけではない、自分が選んだ戦略なのだと、由紀は自分自身に言い聞かせた。

 これは、自分の意志で下す決断だ。

 違和感の正体を確かめるよりも、今は前に進む方を選びたかった。

 立ち止まって考え続ければ、せっかくここまで積み上げてきたものまで、揺らいでしまう気がした。

 由紀はもう一度、頭の中で「フェアな取引だ」という翔太の言葉を繰り返し、自分にその言葉を馴染ませようとした。


「分かった。一年だけなら、付き合う」

「ありがとう。一年経ったら、絶対に俺が由紀の番にする」

 翔太はそう言って、由紀の手をそっと握った。

 その手の温度は、いつもと変わらず安心できるものだった。

 由紀は微笑んで頷いたが、その笑顔の下で、さっきの問いが完全に消えたわけではないことを、自分でも分かっていた。

 それでも今は、その違和感に名前をつける時間も、余裕もなかった。

 由紀はもう一度ペンを取り、企画書の余白に向き直った。

 文字を書く手の動きだけが、由紀をいつもの自分に戻してくれる気がした。


 完璧に組まれたはずのダイヤグラムの上に、由紀自身が見ないことにした小さな分岐点が、確かに一つ、刻まれていた。

 それがどこに繋がっているのか、由紀はまだ、知らないままでいることを選んでいた。

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