第3話 見えない亀裂
由紀のデスクの上には、半年かけて練ってきた企画書の山が積まれていた。
地方都市の取り壊し寸前の団地に暮らす人々を追ったノンフィクション——大手の競合がまだ手を出していない領域だった。
由紀は著者の取材に何度も同行し、深夜まで企画書を十回以上書き直してきた。
社内では、来期の柱になる企画だと、すでに評判が立っている。
これが通れば、編集長への道はほぼ確実になる。
由紀にとって、ただの一企画ではなかった。
取材で訪れた団地の老人たちが、誰にも聞かれることのなかった話を、初めて誰かに話せたと涙ぐむ姿を、由紀は何度も見てきた。
彼らの言葉を、由紀は一字も無駄にしたくないと思っていた。
「由紀さん、これ、すごく面白いです。私にも勉強させてください」
玲奈が、由紀のデスクの脇から企画書の束を覗き込んでいた。
配属されて二年目、まだ自分の企画を持たせてもらえない玲奈は、いつも由紀の仕事に強い興味を示す。
由紀が一から教えた取材メモの取り方を、今では誰よりも丁寧にこなすようになっていた。
最初は何も分からず由紀に泣きついてきた後輩が、ここまで育つのを見るのは、由紀にとって密かな喜びでもあった。
「いいよ、コピー取っていく? ただ、まだ社外秘の部分も多いから、取扱いだけ気をつけて」「もちろんです。由紀さんみたいに、いつか自分の企画を持てるようになりたくて」
まっすぐにそう言う玲奈に、由紀は微笑んで企画書のファイルを手渡した。
誰かが自分のやり方を見て育っていくのは、由紀にとって誇らしいことだった。
自分がかつて、先輩たちの背中を見て這い上がってきたように。
配属されたばかりの頃、玲奈は会議で意見を求められるたびに固まってしまう子だった。
由紀は何度も会議室の隅で、玲奈にだけ聞こえる声で「大丈夫、思ったこと言っていいよ」と耳打ちしたものだった。
半年後、玲奈は誰よりも積極的に発言するようになり、由紀はそれを自分の育て方が正しかった証だと感じていた。
来期、もし玲奈に小さな企画を持たせてやれる立場になれたら——由紀はそんなことまで、ふと考えていた。
その日の午後、由紀は会議室へ向かう途中、廊下の角で玲奈と編集長の堂島が立ち話をしているのを見かけた。
玲奈が何かを熱心に説明し、堂島が頷きながら手元の紙に目を落としている。
普段、若手の企画にそこまで時間をかけない堂島が、珍しく真剣な顔をしていた。
由紀が近づくと、二人とも一瞬、不自然なほど自然な笑顔を作った。
「由紀さん、お疲れさまです。今ちょうど、玲奈さんの企画の相談に乗ってたんですよ」
「そうなんですね。玲奈、頑張ってるね」
「いえ、まだ全然です。由紀さんの企画書を参考に、勉強させてもらってるだけで」
玲奈はそう言って、手にしていた紙をさっとファイルの中に戻した。
由紀はそれ以上気にせず通り過ぎたが、一瞬だけ見えた図表が、自分の企画書のフォーマットとよく似ている気がした。
気のせいだろう、と由紀は思い直した。
玲奈が由紀のやり方を真似して企画書の体裁を整えるのは、いつものことだった。
むしろ、それだけ熱心に学んでいる証拠だと思えば、悪い気はしなかった。
その夜、取材先への手土産を選びに一度外へ出た由紀は、戻りがけにビルの裏手の階段で、電話をしている玲奈を見かけた。
声までは聞こえなかったが、いつもの明るい喋り方とは違う、やや低く抑えた声で、誰かに何度も頭を下げるような姿勢を取っていた。
由紀が「お疲れ」と声をかけると、玲奈は一瞬びくりとしてから、すぐに普段通りの笑顔に戻った。
「あ、由紀さん。すみません、ちょっと友達と電話を」
「そう、お疲れさま。気をつけて帰ってね」
短いやり取りだけで、由紀はそのまま自分のデスクへ戻った。
後輩にも、仕事以外の事情はいくらでもあるだろう。
深く考えるようなことではない、と由紀は思った。
むしろ、こんな時間まで残って何かに必死になっている玲奈の姿に、密かに共感さえ覚えていた。
夕方、由紀は外出先から戻るタクシーの中で、翔太に電話をかけた。
今週末の予定を確認するついでに、ふと、玲奈のことを話題に出す。
「最近、後輩がちょっと気になることがあって。私のやり方、なんでも真似したがるんだけど、たまに踏み込みすぎてる気がするというか……上司にも妙に取り入ってるみたいで」
「それ、危険な兆候だな」
翔太の声には、迷いがなかった。
「危険って?」
「真似するだけの人間は、いずれ真似する対象を踏み台にする。会社で評価されたいなら、教えてくれた相手を超えるしかないんだから、当然そうなる。由紀の会社、そういう人間を見極める仕組みはあるのか?」
「仕組みっていうか……まだ何かしたわけじゃないし、単に熱心なだけかもしれない」
「熱心さと野心は、見分けがつきにくいから危ない。俺なら、可能性があるうちに距離を置く。情に流されて様子を見てるうちに、足元を掬われる方が多い。ベンチャーの世界じゃ、それで潰れた会社をいくつも見てきた」
「距離を置くって、具体的にどうするの」
「重要な情報を渡す範囲を絞る。それだけでいい。可愛がるのと、無防備に手の内を見せるのとは別の話だ」
由紀は黙って、車窓の景色を眺めた。
翔太の言うことは、いつも正しい。
実際、それで翔太は今の地位を築いてきた。
けれど「情に流される」という言葉が、思ったよりも由紀の胸に重く落ちた。
自分が玲奈にしてきたことは、情に流されることだったのだろうか。
何年も赤字続きだった作家を信じて、契約を守り続けたことも、同じように見えるのだろうか。
「由紀? 聞いてる?」
「あ、うん。考えとく。ありがとう、参考になった」
由紀はそう答えて、話題を週末の予定に戻した。
翔太の合理主義は、由紀がこれまで頼りにしてきたものだ。
今さら疑う理由はない。
ただ、電話を切った後も、「情に流される」という一言だけが、しばらく頭の中に残っていた。
帰宅して、由紀はソファに座り、もう一度玲奈に渡した企画書のファイルのことを思い出した。
社外秘の頁を、念のため確認しておこうか。
スマートフォンを手に取り、玲奈にメッセージを送ろうとしたが、文面を考えるうちに、自分が後輩を疑っているように見えるのが嫌になり、結局指を止めた。
明日も朝から取材のアテンドが入っている。
今期一番大事な仕事に集中するべき時に、後輩を疑うようなことに時間を使いたくない——由紀はそう結論づけて、スマートフォンを伏せた。
翔太の「情に流される」という言葉が、もう一度頭の中をよぎる。
けれど由紀は、それをすぐに打ち消した。
何年も赤字続きだった作家を信じて契約を守り続けたことも、玲奈を一から育てたことも、自分にとっては誇るべき判断だったはずだ。
情に流されることと、人を信じることは、違うはずだった。
違う、と由紀は自分に言い聞かせた。
翔太のように、最初から人を線引きして見られる方が、もしかしたら強いのかもしれない。
それでも由紀は、自分のやり方を簡単に手放す気にはなれなかった。
実家からの着信が一件、未読のまま残っていた。
由紀はそれを見たが、すぐに灯りを消して眠りについた。
玲奈の熱心さも、両親の電話も、今の由紀には、立ち止まって向き合うほどの重さを持たないものとして処理されていく。
すべてが片付くべき順番通りに、明日へと持ち越されていく。
完璧に組まれたダイヤグラムの中に、もう一つの小さな綻びが、静かに広がり始めていることに、由紀はまだ気づいていなかった。




