第2話 並走する二つの列車
金曜の夜、由紀は珍しく定時で会社を出た。
家に戻る時間はなく、会社のロッカーに置いていた紺色のワンピースに着替え、化粧だけを直してタクシーに乗り込む。
窓に映る自分の顔を見ながら、由紀は小さく息を整えた。
三十三歳にしては悪くない、と鏡の中の自分に小さく頷く。
今夜のために予約した店——翔太が取ったという「例の店」は、由紀も以前から行きたいと思っていた、四十階のフレンチレストランだった。
エレベーターを降りると、ガラス張りのフロアの向こうに東京の夜景が一面に広がっていた。
案内されたテーブルの窓際で、翔太はすでにワインリストを広げている。
由紀が近づくと、顔を上げて笑った。
「待たせた?」
「ちょうど今来たところだから大丈夫」
由紀が席に着くと、翔太は迷いなくソムリエに二本目のワインの名前を告げた。
由紀の好みを覚えていて、しかもそれを当然のことのように扱う——そういうところが、由紀は気に入っていた。
前菜が運ばれてくる。
帆立と柚子のジュレを一口食べた由紀が小さく声を上げると、翔太は満足げに頷いた。
「気に入った? ここのシェフ、最近独立したばかりらしいんだけど、勢いがある」
「翔太、相変わらず店の情報、誰よりも早いね」
「投資先候補のリストアップと同じ感覚だよ。伸びる店も、伸びる人間も、早く目をつけた方が得をする。由紀のところの新人作家も、そういう目で見てるんだろ」
「まあ、似たようなものかな。信じて、早めに賭けるしかないところは一緒」
由紀は笑いながら、それが冗談には聞こえない言い方だと内心思った。
けれど、その合理さこそが翔太の魅力でもあった。
三年前、出版社とIT企業の合同プロジェクトで初めて顔を合わせた夜のことを、由紀はまだよく覚えている。
打ち合わせが長引き、終電がなくなった帰り道、土砂降りの中で二人とも傘を持っていなかった。
翔太はためらいもなくタクシーを止め、「方向は逆だけど、送るよ」と言った。
送られる間、何の話をしたわけでもなかったのに、由紀は妙に安心したのを覚えている。
気を遣われているのに、気を遣われている感じがしない。
そういう距離感を保てる人に、由紀はそれまで会ったことがなかった。
一年後、由紀のマンションの契約更新のタイミングで、翔太の方から「うちに来れば」とだけ言われた。
引っ越すかどうかを決めるのに十分もかからなかった。
決断の速さも、迷いの少なさも、由紀にはほどよい重さだった。
料理が運ばれてくる間、隣のテーブルから声がかかった。
翔太の知り合いだという、ベンチャー業界の男だった。
「柏木さんと宮沢さん、お二人でしたか。いやあ、お似合いですね。社内でも『あの二人を見ると、自分も頑張らなきゃって思う』って評判ですよ」
愛想笑いを返しながら、由紀は密かに満足していた。
先月、業界の交流会で撮られた二人の写真が、いつの間にか翔太の会社の社内報に載っていたことを思い出す。
誰の目から見ても完璧なカップルに見えた。
それは、由紀が積み上げてきたものの、もう一つの証明のようだった。
男が席に戻ると、翔太はグラスを傾けながら切り出した。
「来月から、新しい事業部を任されることになった。立ち上げから全部、俺の裁量でやらせてもらえる」
「それはすごいじゃない。おめでとう」
「ありがとう。……それで思ったんだけど、由紀ともそろそろ、ちゃんと将来の話をしたいと思ってる」
由紀の中で、小さな予感が確信に変わっていく。
三年付き合って、互いの仕事も評価し合ってきた。
次のステップに進むのは、自然な流れに思えた。
「将来の話、って?」
「今度、ゆっくり話す。今夜はまだ、前置きだけ」
翔太はそう言って、わざと意味深に笑った。
由紀も笑い返しながら、自分の中の編集長候補という肩書きを思い出した。
来年、編集長になれば、由紀はこの会社で最年少の女性編集長になる。
社内報の人事欄に自分の名前が載る日を、由紀はもう何度も想像していた。
誰かの後ろをついていくのではなく、自分の名前で本を作っていく——その景色を、由紀はもう何年も前から具体的に思い描いてきた。
「私も、来年中に編集長になるつもりだから。お互い、足を引っ張り合わない関係でいたいよね」
「足を引っ張るどころか、由紀がいると、俺もまだ甘えてられないって思わされる」
「ちなみに私、結婚式とかは、正直そんなに興味ないかも。準備に半年もかけるとか、想像できない」
「同感。籍だけ先に入れて、披露宴は仕事の節目が落ち着いた時にやればいい。そっちの方が合理的だ」
「翔太のそういうところ、本当に楽。一緒にいて、無駄に疲れないっていうのが一番ありがたい」
翔太の口から出る言葉は、いつも由紀を持ち上げながら、同時に由紀自身の価値を確認させてくれるものだった。
先月、結婚した大学時代の友人の話を、由紀はふと思い出す。
式の準備に半年もかけ、夫の実家との付き合いに悩み、「私の人生、これでよかったのかな」とこぼしていた。
由紀はあの時、心の中でそっと安堵していた。
自分と翔太の関係には、そういう湿った迷いはない。
互いの成功を、互いの誇りとして共有できる関係——由紀はそれを、自分が選び取った、最も理想的な形だと思っていた。
デザートが運ばれてきた頃、翔太がふと由紀の顔を覗き込んだ。
「由紀、さっき笑った時、ちょっと無理してなかった?」
不意の一言に、由紀は一瞬遅れて笑顔を作った。
胸の奥で、健太からのLINEと、開けなかった実家の電話のことが小さく音を立てた気がしたが、由紀はそれをすぐに押し込めた。
「そんなことないよ。今日、ちょっと会議が長引いて疲れてるだけ」
「そう? 最近、たまにそういう顔するから」
「心配しすぎ。私、翔太よりタフだから」
由紀は軽く肩をすくめて、ワインを一口飲んだ。
翔太はそれ以上追及せず、グラスを合わせるように促した。
誰よりも由紀を観察しているはずの翔太でさえ、それ以上は踏み込んでこない。
由紀はそのことに、安堵していた。
誰にも踏み込まれない場所に、自分の弱さを置いておける——それが、この関係の心地よさだった。
店を出ると、夜景がいつもより少し近く見えた気がした。
一階のロビーに併設されたジュエリーショップの前を通る時、由紀はショーケースの中の指輪にほんの一瞬だけ目をやった。
焦るつもりはない、けれど、来るべき時が近づいているという確信だけは、由紀の中で静かに膨らんでいた。
翔太も気づいたのか気づかなかったのか、何も言わずに歩を進める。
由紀もそれに合わせて、何も言わずに視線を外した。
タクシーに乗り込み、翔太の肩に頭を預けながら、由紀はバッグの中でスマートフォンが小さく震えたのに気づいたが、画面を見ることはしなかった。
今夜だけは、何にも邪魔されたくなかった。
窓の外を流れる光を眺めながら、由紀は今夜の会話を頭の中で何度も再生した。
新しい事業部、編集長候補、将来の話、指輪には触れなかったけれど確かにそこにあった予感——すべてが、計算された通りに進んでいるように感じた。
一つも、無駄な感情に振り回されることなく。
二本の列車が、同じ速度で、同じ方向へ、決して衝突することなく並走していく。
由紀には、翔太との関係がそんなふうに見えていた。
隣を走る列車があるからこそ、自分のダイヤグラムはもっと正確にもっと完璧になっていく。
由紀の人生には、脱線も、遅延も、起こり得ないことのように思えた。
そう信じて、由紀はその夜、深く眠った。




