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第1話 完璧なダイヤグラム

 目覚まし時計が鳴る前に、由紀はいつも自分で目を覚ます。

 寝室の壁に貼った今週のスケジュール表に目を通し、コーヒーを一口飲んでから着替える。

 それだけで、今日も一日が予定通りに始まったという小さな満足感がある。


 由紀のデスクには、三色のインデックスシールが几帳面に並んでいる。

 赤は「要確認」、黄は「進行中」、青は「完了」。

 新人の頃に自分で決めたルールを、十年間一度も崩したことがない。

 仕事の遅れは人生の遅れに直結する——由紀はそう信じて生きてきたし、実際、その信念は彼女をここまで運んできた。

 三十三歳、編集長候補。

 中堅出版社の文芸編集部で、由紀の名前を知らない人間はいない。


 オフィスの窓からは、ビル群の隙間を縫うように走る新幹線の高架が小さく見える。

 由紀はその窓際の席を、誰に頼まれたわけでもなく、自分の手で勝ち取った。

 忙しい部署の中でも、ちょっとした一等地と言われている場所だった。


 朝、地下鉄のホームで電車を待つ三分間にメールを返し、エレベーターの中で今日のタスクを頭の中で並べ替える。

 由紀の一日は、分単位で組まれた一本の列車のようなものだった。

 狂いのないダイヤグラム。

 一度狂えば、すべてが遅れていく——その恐怖を知っているからこそ、由紀は誰よりも丁寧に、自分の時間を管理してきた。


 午前の会議を終えて自席に戻った由紀の目に、母から届いていたグループLINEの通知が映る。

 実家のある町の話題で、近所の電器屋が今月いっぱいで店を畳むという内容だった。

 子供の頃、テレビを買い替えるたびに親について行った、あの店。

 由紀は数秒、その文字を見つめた。


 高校三年の進路相談の日のことを思い出す。

 担任に「あなたみたいな子は、東京に出なきゃ何者にもなれないよ」と言われた。

 励ましだったのか、ただの世間話だったのか、今でも由紀には分からない。

 ただその一言は、十五年経った今もまだ、由紀の中で小さく光り続けている。

 何者かになるために、由紀はこの十年、振り返らずに走ってきた。


 通知を閉じ、午後三時、由紀は通話の予定を確認してから、デスクの端に置いた一冊のノートを開いた。

 表紙には、もう四年も付き合いのある作家の名前が手書きで記されている。

 デビュー作はかろうじて重版がかかった程度で、二作目は誰の記憶にも残らず終わった。

 今でも世間的には「鳴かず飛ばず」と言われる作家。

 二作目の売上が振るわなかった時、編集会議では「次で契約終了」という声が大勢を占めた。

 あの時、由紀だけが「もう一作だけ、私に賭けさせてください」と頭を下げた。

 当時の編集長は呆れたように笑ったが、由紀の熱意に折れた。

 あの判断が正しかったかどうかは、今でも誰にも分からない。

 それでも由紀は、自分の見立てを後悔したことは一度もなかった。


 それ以来、由紀は彼の原稿に毎回、誰よりも丁寧に赤を入れてきた。

「三章のラスト、もう一回直していいですか。なんか、今のままだと弱い気がして」

 電話の向こうの声は、いつも少し怯えている。

 由紀は手元のページをめくりながら、わざとゆっくり答えた。

「直していいですよ。でも、前のバージョンも捨てないでくださいね。今回、私は前の方が好きだったので」

 数秒、沈黙があった。

 それから、電話越しに小さく笑う声が聞こえた。

「でも、由紀さんがそう言うなら、信じます」。

 由紀はその一言で、一日の疲れが少し軽くなった気がした。

 誰かに信じられることが、由紀にとっては何よりの報酬だった。

 自分が信じることで、誰かが前を向けるなら——それが由紀の仕事の、いちばん奥にある動機だった。


 通話を終えてフロアを見渡すと、後輩の玲奈が小走りで寄ってきた。

「由紀さん、さっきの企画書、編集長がべた褒めしてましたよ。さすが由紀さんですね」

 無邪気にそう言って笑う玲奈に、由紀は軽く笑い返した。

 生意気だが要領がよく、由紀のやり方を一番熱心に真似してくる後輩だ。

 可愛がっているという自覚も、由紀には少しある。

 いつか自分のような編集者になればいい、と思っている。


 昼休み、給湯室で顔を合わせた同期の涼子が、由紀のスマートフォンのロック画面を見て笑った。

「あんたまだ翔太くんとのツーショットを待ち受けにしてんの。パワーカップルすぎて、こっちが恥ずかしいわ」

「悪い?  自分でもお似合いだと思ってるんだけど」

「いやいや、似合ってるのは認めるけど。たまには手帳に予定がない日、作ってる?」

「予定がない日に、予定を入れてるから大丈夫」

 涼子は呆れたように笑って、コーヒーを片手にフロアへ戻っていった。

 由紀にとって、こういう何気ないやり取りこそが、自分の生活がうまく回っている証拠のように思えた。


 翔太と付き合い始めたのは三年前、合同企画のプロジェクトで知り合ったのがきっかけだった。

 互いに仕事第一で、互いの予定を尊重し、無駄な束縛をしない。

 その相性の良さは、まるで二つの優秀な企業が業務提携を結ぶときのようだ、と由紀は密かに思っている。

 誰かに頼らず、誰にも頼られすぎず、フェアに釣り合っている——そんな関係を、由紀は誇らしく思っていた。


 席に戻ると、スマートフォンの画面に通知が三件溜まっていた。

 一件は実家の固定電話、一件は父から、もう一件は弟の健太からのLINEだった。

 由紀は画面を一瞥して、そのまま伏せた。

 電話に出れば、また同じ話になる。

「いつ帰ってくるの」「お母さんも心配してるよ」——優しい言葉のはずなのに、由紀の耳には、いつも少しだけ刃のように刺さる。

 十年間、由紀は実家に帰っていない。

 盆も正月も、出版社の繁忙期を理由に断り続けてきた。

 本当の理由は、もっと単純で、もっと子供っぽいものだ。

 帰れば、今のこの完璧な毎日のどこかに、ひびが入るような気がしていた。


 仕事が終わったのは夜の九時を過ぎた頃だった。

 エレベーターの中でようやくスマートフォンを開き、健太からのLINEを開く。

『母さん、ちょっと血圧高くて病院行ってきた。心配ないって。仕事忙しいんだろうから、気にしなくていいよ』

 既読がつく。

 それだけだった。

 返信を打とうとして、由紀は何度も文字を消した。

「ありがとう、ごめんね、また連絡する」

 ——どの言葉も、自分の口から出るには軽すぎる気がして、結局、何も送らないままスマートフォンをバッグに戻した。


 オフィスビルを出ると、東京の夜景がいつものように完璧に輝いていた。

 ビルの灯り、車のライト、駅へ吸い込まれていく人の流れ。

 由紀はその一つ一つが、決められた時刻に決められた場所を通る、巨大なダイヤグラムのように見える瞬間が好きだった。

 狂いのない時刻表。

 狂いのない人生。

 自分もその一部であることに、由紀はずっと誇りを持っていた。


 恋人の翔太からメッセージが届いていた。

『今週末、例の店、予約取れたよ。話したいことがある』

 由紀の頬が、自然とゆるんだ。

 きっと、あの話だ。

 翔太らしい、無駄のない言い回し。

 三年という季節を重ねたタイミングを考えれば、答えはひとつしかない気がした。

 由紀は迷わず「楽しみにしてる」と返信し、駅へ向かう足を速めた。


 仕事も、恋人も、思い描いていた通りに進んでいる。

 実家からの着信は、また今度かけ直せばいい。

 健太のことも、母のことも、きっと大したことはない。

 由紀はそう自分に言い聞かせながら、改札を抜けた。

 完璧に組まれたダイヤグラムに、少しの狂いが生じ始めたことを、由紀はこの夜、まだ知らない。

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