第10話 終電車の見送り
地下の資料管理室での仕事は、午後六時にはきっちり終わる。
誰にも引き止められることのない退勤。
かつての由紀には考えられなかった習慣だった。
以前は、終電近くまでオフィスに残っているのが当たり前で、定時で帰るという感覚そのものを忘れていた。
今は逆に、定時で終わってしまうことが、由紀には間が持たない時間として残された。
エレベーターを上がり、改札を抜け、由紀はホームのベンチに腰を下ろす。
マンションへ帰る電車には、まだ何本も乗れる時間だった。
それでも由紀は、毎晩そこに座り続けるようになっていた。
翔太がいなくなった部屋に、まっすぐ帰る気になれない。
かといって、行く当てがあるわけでもない。
駅という、誰のものでもない場所に身を置くことで、自分がどこにも属していないという事実を、かえって受け入れやすくしているような気がした。
家でもない、職場でもない、その中間にあるホームのベンチだけが、今の由紀にちょうど良い居場所だった。
ホームのベンチからは、行き交う人々がよく見えた。
スーツ姿のまま居眠りをしているサラリーマン。
スマートフォンの画面に夢中な学生たち。
重そうな荷物を引きずる年配の女性。
誰もが、それぞれの一日の終わりを抱えて、同じホームに立っている。
これまで、こうした人々を「風景」としてしか見たことがなかった。
自分の予定をこなすための背景。
けれど今、その一人一人に、見えない物語があるように思えてならなかった。
ある夜、ホームの端で、スーツ姿の中年男性が、缶チューハイを片手に、誰に向けるでもなく独り言を呟いていた。
「明日も会議か」というその一言だけが、由紀の耳に届く。
それを聞いて、見知らぬ誰かの人生の重さを、ふいに想像してしまった。
あの男にも、由紀の知らない家族や悩みがあるのだろう。
これまでの自分なら、見て見ぬふりをして通り過ぎていたはずの光景だった。
九時を過ぎた頃、隣のベンチに、由紀と同じくらいの年齢の女性が座った。
スーツに皺が寄り、片手にコンビニのおにぎりの袋を提げている。
彼女はおにぎりを一口食べては、スマートフォンの画面を睨みつけ、また一口食べる。
仕事の何かに追われているのが、見ていて伝わってきた。
かつての自分を見ているような気がした。
あの頃の自分も、こうして誰かの目に映っていたのだろうか。
その女性は、やがて電話をかけ始めた。
「すみません、今日中に直して明日の朝一で送ります」
「いえ、大丈夫です、できます」
――声のトーンは明るいのに、握りしめたおにぎりの袋が、少しずつ潰れていく。
電話を切った後、彼女は深く息を吐き、もう一度スマートフォンの画面に向き合った。
由紀は声をかけることもできず、ただ視界の端で、その横顔を見ていた。
あの必死さの中に、かつての自分がいたことを、由紀はもう疑いようもなく知っていた。
何かを頑張ろうとする姿は、いつだって少し痛々しくて、同時に少し美しい。
終電が近づくと、駅員のアナウンスが響く。
「ご乗車はお早めに」という、ありふれた言葉。
それを聞くたび、自分には急いで乗るべき電車がないことを、改めて思い知らされた。
それでも不思議と、そのアナウンスを聞くのが、嫌いではなかった。
誰かが、どこかへ向かって急いでいる。
その当たり前の営みの中に、自分だけがぽつんと取り残されているという感覚。
痛みであると同時に、奇妙な静けさでもあった。
誰にも急かされない夜が、こんなにも静かなものだとは、これまで知らずに生きてきた。
ある夜、駅前の路上で花を売る年配の女性に初めて目を留めた。
シャッターの下りた商店の軒先で、品の良い佇まいの女性が、小さなブーケをいくつか並べている。
こんな時間まで花を売る人がいることに今更ながら気づいた。
これまで何度もこの駅を通り過ぎてきたはずなのに、彼女の存在に気づいたことは一度もなかった。
女性は客が来なくても、慌てる様子もなく、ただ静かに花を整えていた。
萎れかけた花びらを一枚ずつ取り除き、束ね直し、また誰かが通りかかるのを待つ。
その仕草には、急かされている人間特有の余裕のなさが、まったく見えなかった。
同じ東京の同じ駅にいながら、由紀のこれまでの生活とは、まるで違う時間の流れ方をしている人がいる。
その事実だけで、由紀は不思議な安らぎを覚えた。
いつか、あの花を一輪買ってみようか――そんな小さな考えがふとよぎった。
由紀は自分が、これまでどれだけ多くのものを見ずに生きてきたかを、思い知らされた。
仕事に夢中だった頃は、目の前のタスクと、評価と、翔太との時間しか見えていなかった。
誰かの苦しみも、誰かの営みも、由紀の視界には入っていなかった。
健太のLINEを遡ったあの夜、初めて自分以外の人間の苦しみに気づいたように、今、由紀の視界は、少しずつ周囲に向かって開かれ始めていた。
不思議なことに、その「見える」という感覚は、由紀をさらに落ち込ませるものではなかった。
むしろ、自分一人だけが特別に不幸なのではなく、誰もがそれぞれの重さを抱えてこの街で生きているのだと知ること。
それは、由紀にとって、わずかな安堵にも似ていた。
誰かと比べて自分の苦しみが軽くなるわけではない。
ただ、自分の苦しみだけがすべてではないという感覚。
それが、ほんの少しだけ力を抜かせていた。
もしかしたら、と由紀は思う。
故郷にも、こんなふうに、自分が見過ごしてきたものが、まだたくさんあるのではないか。
両親の苦労も、健太が背負ってきたものも、由紀が「何もない田舎」と決めつけて顧みなかった町の景色も。
東京で何もかも失った今、もう「帰ったら負けだ」という意地だけではなかった。
何かを確かめたい、という、もっと静かな欲求が、その意地の奥で、少しずつ形を持ち始めていた。
子供の頃に見ていた故郷の景色を、ぼんやりと思い出そうとした。
裏山の稜線、川沿いの土手道、夏になると蛍が飛ぶという話を誰かから聞いた記憶。
けれど、その景色のどれもが、「つまらないもの」「東京にはないもの」としか位置づけられてこなかった。
今、それらの記憶を改めて思い出してみると、なぜあの頃の自分は、あんなにも単純にその価値を決めつけてしまったのだろうと、不思議な気持ちになる。
とはいえ、その考えを、まだ誰にも、自分自身にさえもはっきりとは言葉にできなかった。
終電のアナウンスが、また今夜も響いた。
花売りの女性が静かに店じまいをする様子を見届けてから、ようやく腰を上げ、いつもの電車に乗り込んだ。
車内はがらんとしていて、向かいの座席には誰も座っていなかった。
窓ガラスに映る自分の顔を、由紀はしばらく見つめた。
左遷されたばかりの頃に比べると、その顔つきは、わずかに違って見える気がした。
何が変わったのか、由紀自身にもうまく説明はできなかった。
目の奥にあった鋭い焦りのようなものが、ほんの少しだけ和らいでいるようだった。
それは由紀にとって、まだ名前のない変化だった。
窓の外を流れる夜景を眺めながら、ふと、自分が何かを探しているのだということに気づいた。
それが何なのか、まだはっきりとは分からない。
ただ、その「何か」は、これまで信じてきた東京の灯りの中には、もうないような気がしていた。




