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第11話 見知らぬ乗客たち

 ホームのベンチに座り続ける夜が、いつの間にか一週間を超えた。


 最初は、翔太のいない部屋に帰るのが辛いから、という消極的な理由だった。

 けれど今は、少し違う理由でここにいる気がしていた。

 うまく言葉にできないが、何かを見ていたかった。

 誰かの人生の欠片を、じっと眺めていたかった。

 この場所には、由紀が東京に来てから一度も立ち止まって見てこなかった景色が、当たり前のように続いていた。


 その夜もいつものベンチに座っていると、ホームの端で、小学生くらいの男の子が大きな声で泣いていた。

 傍らに立つ母親は、疲れ果てた顔で「もう終わりにしよう、電車乗るよ」と繰り返している。

 男の子は首を振り続け、なぜ泣いているのかも由紀には分からなかった。

 子供にとっては世界の終わりのような何かが、あの涙の向こうにあるのだろう。

 三十三歳の自分には想像もつかない、六歳か七歳の苦しみが。


 やがて母親がしゃがんで、男の子の目線に合わせた。

 何か低い声で話しかけると、男の子の泣き声が少しずつ小さくなっていく。

 その光景を、ベンチから見ていた。

 母親の疲れた背中と、それでも子供と同じ高さまで降りようとする姿勢の間に、誰にも見せるためではない、ただの親としての時間が流れていた。

 由紀の母も、こういう時間を過ごしてきたのだろうか。

 由紀が泣いている時に、しゃがんで目線を合わせてくれた記憶が、どこかにあったはずだった。


 少し離れた場所では、老いた夫婦が並んで座っていた。

 どちらも口を開かず、ただ前を向いている。

 不仲なのか、長年一緒にいすぎて言葉が要らなくなったのか、由紀には判断がつかなかった。

 ただ、その沈黙が、互いに体の重さを預け合っているようにも見えた。

 老夫婦はやがて電車が来ると、どちらからともなく立ち上がり、ゆっくりと並んで歩いた。

 どちらかの手が、もう一方の手を支えるようにしている。

 何十年も一緒に生きてきた人間の間にだけ生まれる、言葉のいらない時間というものが、あるのかもしれない。

 由紀には、まだ遠い景色だった。


 改札の外には、今夜もマリアさんが花を並べていた。

 由紀がベンチに座るようになってから、毎晩顔を合わせるようになっている。

 客はまばらで、売れない夜の方が多いようだった。

 それでもマリアさんは、萎れた花を一本一本抜きながら、残った花を丁寧に束ね直す。


 ある晩、思いきって声をかけた。

「いつもここで花を?」

「ええ、もう十五年になりますかしら」

 マリアさんは穏やかに答えた。

 かすかに外国のアクセントがある。

 聞くと、若い頃に来日して、ずっとこの街に住んでいるという。

「商売というより、好きだからやってるんです。花と話していると、気持ちが落ち着くから」

「売れない日も、同じですか」

「同じですよ。花は、売れても売れなくても、ちゃんと咲いてますから」

 その言葉に、由紀は何も返せなかった。

 そのまましばらく黙っていると、マリアさんはゆっくりと手元の花を整えながら、続けた。


「あなた、最近ここでよく会いますね。どこかへ行く途中?」

「どこへも、行かないんです。なんとなく、ここにいたくて」

「それは良いことよ。急いで行かなくても、ちゃんと来るものは来るから」

 マリアさんはそう言って、小さなかすみ草の束を一本、由紀の手に持たせてくれた。

「持っていって」と言うその声は、商売の言葉ではなかった。

 由紀は財布を出そうとしたが、マリアさんは首を振った。

 売れても売れなくても咲いている花。誰かに評価されても、されなくても、そこにある何か。

 十年間、由紀が信じてきたのは「誰かに認められること」だけだったのではないか、という考えが、ぼんやりと浮かんで消えた。


 翌日の夜、由紀は定時になってもしばらくオフィスに残り、地下の資料管理室で、棚の奥に積まれていた古い出版企画書の束を取り出した。

 何十年も前のものから、数年前のものまで、採用されなかった企画が、誰にも読まれないまま眠っていた。


 由紀はその一冊を開いた。

 十五年前の若い編集者が書いたと思われるその企画書は、文章は荒削りで、構成も甘かった。

 けれど、著者への熱意と、その本が届けたい相手への想像力だけは、一行ごとにみなぎっていた。

 この人はどうなったのだろう、と由紀は思う。

 今も編集者をしているのか、違う道に進んだのか、由紀には知る術もない。

 ただ、この企画書を書いた人も、かつて何かを信じて、必死に働いていたのだと分かった。


 別の一冊を開いた。

 三十年前の企画書だった。

 今ではもう使われない活字体の表記で、著者への敬意と編集者としての矜持が、几帳面な文字で綴られていた。

 この企画書が採用されなかった理由も、由紀には分からない。

 その編集者が今どこにいるかも、当然分からない。

 ただ、その人がこの企画書を書いた夜があったということだけが、棚の奥で静かに事実として残されていた。


 それがうまくいかなかったとしても、その必死さは確かにあった。

 誰にも残らなくても、棚の奥に眠っていても、この人が何かに夢中になった時間は、確かに存在した。

 由紀はページをそっと閉じて、元の場所に戻した。


 その日の夜も、ホームにいた。

 終電近くの静けさが広がっていた。

 ベンチには、由紀の隣に、三十代くらいの男性が座っていた。

 スーツの上着を膝の上に置き、目を閉じたまま、何かを堪えているような顔をしている。

 泣いているわけでも、眠っているわけでもない、ただ、目を開ける気になれないような表情だった。


 由紀は横目でその人を見ながら、なんとなく、声をかけてはいけない気がした。

 今の由紀には、その感覚が分かる。

 他人に何かを言われたい夜ではなく、ただ、ここに座っていたい夜というものがある。

 そういう夜に、知らない人間から「大丈夫ですか」と声をかけられることは、時として、一人でいることを邪魔されるような感覚になる。


 由紀は声をかけなかった。かけられなかった、の方が正確かもしれない。

 ただ、隣に座ったまま、しばらく同じホームの空気を吸っていた。

 男性はしばらくして、大きく息を吸って目を開け、ゆっくりと立ち上がり、電車に乗っていった。

 何も言わないまま。由紀も何も言わないままだった。

 それだけで良かった気がした。


 誰もが、誰かの目には見えない場所で、何かと戦っている。

 子供の泣き声も、老夫婦の沈黙も、マリアさんの花も、古い企画書も、男性の閉じた目も、みんな、それぞれの「人生の途中」だった。

 途中だから、まだ終わっていない。

 途中だから、まだ何かが変わりうる。


 由紀はこれまで、人生を「達成するもの」だと思っていた。

 目標があり、そこへ向かう道があり、たどり着いた先で何かが完成する、という感覚。

 けれど今、ベンチから見えるこの人たちの誰も、何かを「達成した顔」をしていない。

 みんな、途中の顔をして、ここにいる。

 もしかしたら、人生とはずっと途中のものなのかもしれない。

 完成も、達成も、終点も最初からなくて、ただ、途中の一日一日を積み重ねていくだけのものかもしれない。


 由紀は自分も、今、人生の途中にいるのだと、ようやく思えるようになってきた気がした。

 全部を失ったのではなく、ただ、今は途中なのだ。

 その考えは、慰めというには頼りなく、確信というには曖昧すぎたが、それでも由紀の胸に、これまでになかった小さな温度を残していった。


 帰り際、マリアさんからもらったかすみ草を、由紀は鞄の中で確かめた。

 小さくて、地味で、主役にはなれない花。

 それでも、確かにそこにある。

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