第12話 迷子の切符
その夜、終電が出た後のホームに、一人の少女が残っていた。
大きなリュックを足元に置いて、ベンチに体を縮めている。
十七、八歳だろうか。
コンビニの袋を手に持ったまま、そこから何かを取り出すわけでもなく、ただうつむいていた。
由紀が気づいた時、終電はもう一本も残っていなかった。
声をかけるべきか、しばらく迷った。
これまでの由紀なら、おそらく迷わなかった。
関わり合いになることを、最初から選択肢に入れなかったはずだ。
けれど今夜は、なぜか足が止まった。
あの子も、今、「途中」にいる。
その感覚だけが、由紀の背中を押した。
「終電、なくなっちゃったけど、大丈夫?」
少女は顔を上げた。
泣いていたのか、目が赤い。
由紀の顔をしばらく眺めてから、小さく首を振った。
「大丈夫じゃ、ないです」
正直な答えだった。
由紀は少女の向かいに腰を下ろした。
「どこかへ行こうとしてたの?」
「……東京に来たばっかりで。知ってる人、誰もいなくて」
東京に来たばかり。
由紀は、十五年前の自分と、今目の前にいるこの子の年齢が、たいして離れていないことを思った。
名前はミカといった。
由紀が少し話を聞いてみると、地方の町から一昨日来たという。
友達と「東京に行けばなんとかなる」と話していたのに、友達は急に来られなくなって、一人で来てしまったのだという。
泊まる場所もなく、知り合いもなく、コンビニで一晩を明かそうとしていたところだった。
「どこの出身なの?」
「……北陸の方です。海と山しかないとこ」
「それ、悪くない場所じゃない」
「みんなそう言うんです。地元の大人たちが。でも住んでると、ぜんぜんそう思えなくて」
由紀には、その言葉の温度が分かった。
外の人間が「綺麗な場所だね」と言うのと、そこで生まれ育った人間が「何もない」と感じるのは、全く別のことだ。
由紀自身もそうだった。
故郷の山や川の景色を、美しいと思ったことは一度もなかった。
いつもそこにあるものは、風景ではなく、ただの「背景」だった。
「家には帰れないの?」
由紀が聞くと、ミカは少し黙ってから言った。
「帰りたくない、です。なんか……あの町にいると、息が詰まって。みんな同じことして、同じ話して。私だけ、なんか違う気がして。東京なら、もっと自分らしくいられるかなって思ったんですよ」
由紀は、その言葉を聞いて、胸の奥が鈍く痛んだ。
十五年前、自分も同じことを思っていた。
「東京に出なきゃ何者にもなれない」という担任の言葉に乗っかるずっと前から、あの町の息苦しさを、由紀も感じていた。
ミカの言葉は、由紀のそれとほとんど同じだった。
「東京に来たら、なんか変わると思ってたの?」
「変わると思ってました。実際、来てみたら……よく分からなくなっちゃって」
「どんなふうに?」
ミカはしばらく考えてから、ゆっくりと言葉を探した。
「なんか、すごく、大きくて。人がいっぱいいて。私がここにいても、誰も気にしないじゃないですか。田舎だと、誰かに何か言われるのが嫌で出てきたのに、ここだと、誰にも何も言われなくて。それが思ったより怖くて」
誰にも何も言われない怖さ。
由紀は、自分が今まさにその中にいることを、思い知らされた言葉だった。
地下の資料管理室で誰にも話しかけられない日々も、SNSで自分の不在に誰も気づかないことも、全部、ミカが「怖い」と言ったものと同じだった。
「田舎、嫌いなの?」
「嫌いっていうか……先が見えてる気がして。ずっとあそこにいたら、私の人生、もう全部見えちゃってる気がして、それが怖いんだと思います」
「でも東京も、見えてたわけじゃなかった」
由紀は、気がついたら口に出していた。
ミカは少し驚いたような顔をして、由紀を見た。
「そうですよね。全然、見えてなかったです」
由紀はしばらく考えてから、続けた。
「私も十五年前、同じ気持ちで東京に来た。東京に出なきゃ何者にもなれないって思ってた。でも今、仕事も、付き合ってた人も、全部なくなって、ホームのベンチに毎晩座ってる」
言葉にしてみると、自分の今の状況の滑稽さが、少しだけ笑えてくるような気がした。
ミカも笑わなかったが、黙ってしっかりと由紀の話を聞いていた。
「じゃあ、東京に来たのは失敗だったんですか」
「まだ途中だから、分からない」
由紀はそう答えてから、これは本当のことだと気づいた。
失敗とも、成功とも、まだ決まっていない。
ただ、今は途中なのだ。
その感覚を、由紀は今、誰かに向けて言葉にしたのは初めてだった。
しばらく二人とも黙っていた。
駅のアナウンスがすでに止まったホームに、遠くの街の音だけが聞こえる。
改札の外に目をやると、マリアさんの姿はもうなかった。
今夜も花を全部売り切れなかっただろうか、と由紀はふと思った。
売れなくても、また明日並べるのだろう。
この子にも、また明日があると、そう思ってやれる人間が、今夜だけはそばにいてやれる。
「今夜、うちに来る? 狭いけど、一人暮らしだから」
ミカはしばらく由紀の顔を見て、それから「怪しい人じゃ、ないですよね」と言った。
「怪しい人じゃないかどうかは、自分ではなんとも言えないけど、今夜の選択肢がコンビニかうちかだったら、うちの方がいいと思う」
ミカは少し笑った。
由紀も、自分が笑っていることに、あとから気づいた。
何週間ぶりかの、ほんの少しだけ力の抜けた笑いだった。
由紀のマンションにミカを連れてきたのは、深夜十二時を過ぎた頃だった。
シャワーを貸し、タオルを渡し、余っていたパジャマを引っ張り出す。
リビングのソファにミカが横になるのを見ながら、由紀は台所でお茶を淹れた。
動いている間、由紀は不思議と、久しぶりに頭の中が静かになるのを感じていた。
左遷されてからの数週間、由紀の頭は常に、過去の出来事を反芻するか、先の見えない不安を抱えるかのどちらかだった。
けれど今夜は、お湯を沸かすことと、ミカに何を出してやるかということだけを考えていた。
誰かのために何かをするという行為が、由紀に「今ここにいること」を取り戻させていた。
「ありがとうございます」
ミカが小さな声で言った。
お茶を両手で包んで飲むその仕草が、どこか子供っぽくて、由紀は自分がずいぶん久しぶりに誰かの世話をしているのだということに気がついた。
翔太がいた頃は、どちらかが誰かの世話をするという関係ではなかった。
玲奈に企画書を教えていた頃も、それは「育成」という名の仕事だった。
ただ、誰かのために、お茶を淹れる。
それだけのことが、今夜の由紀には、ひどく自然な行為として、手の中に収まった。
ミカが眠りにつくのを待って、由紀は電気を消した。
暗くなった部屋の中で、由紀はソファの端に少しだけ腰掛け、眠っているミカの横顔を見た。
十五年前の自分に、誰かがこうしてくれたなら、と思った。
あの頃の自分には、東京でこうして話を聞いてくれる人間が、一人もいなかった。
一人でここまで来たのだと誇りに思っていたが、本当は、一人しかいなかっただけだったかもしれない。
部屋の隅に、マリアさんからもらったかすみ草が、コップに挿して置いてあった。
花瓶がないから、コップで代用した。
それでも、花は確かにそこにあった。
売れても売れなくても、咲いている。
由紀はその小さな花を眺めながら、自分がこの先どこへ向かうのか、まだ分からないままでいることを、今夜に限っては許せる気がした。
探していたものが何なのか、まだ由紀には言葉にできない。
ただ、誰かのために動いた今夜、何かが由紀の中で、少しだけ動いた気がしていた。




