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第13話 過去の自分との対鏡

 翌朝、目が覚めるとミカはもう起きていた。

 洗面台の前で顔を洗い、由紀が出してやったタオルで丁寧に顔を拭いている。

 昨夜よりも、少し落ち着いて見えた。

 由紀がコーヒーを淹れながら「眠れた?」と聞くと、「はい、ちゃんと眠れました」と言って、ミカは少し照れくさそうに笑った。


 二人でテーブルに向かい合って座り、由紀が冷蔵庫にあったもので簡単な朝食を作った。

 食パンを焼き、目玉焼きを一つ。

 自分のためだけに作る時には用意しなくなっていた献立だった。

 誰かと一緒に食べることが、こんなにも朝を「朝らしく」するのかと、由紀は少し驚いた。

 カーテンの隙間から入ってくる朝の光が、テーブルの上のコーヒーカップに当たっている。

 こんな普通の朝が、この部屋にまだ来るのだと、由紀は思った。

 翔太がいなくなってから、由紀は毎朝、コーヒーだけ飲んで出かけていた。

 食べることさえ、面倒に感じていた。


 食べながら、ミカが少しずつ自分のことを話した。

 ミカは北陸の小さな港町の出身で、高校三年生だった。

 進路の時期になって、周りがみんな地元の短大か専門学校を選ぶ中、ミカだけが東京の美大に行きたいと思い続けていた。

 絵を描くのが好きで、東京に出ればもっと本格的に学べると信じていた。

 親は反対した。

 お金のことも、東京での一人暮らしのことも。

「あなたの絵で食べていけるわけがない」という母親の言葉が、今もミカの中に刺さっていた。


「その言葉を言われた時、どうだった?」

「泣きました。でも、泣いた後、逆に、絶対東京に行ってやるって思って」

 由紀は、その反応に、自分を重ねた。

 言葉で傷つけられた時、折れるか、反発して燃えるかのどちらかになる。

 由紀も燃えた側だった。

 あの担任の一言は、由紀を傷つけると同時に、火をつけた。

 傷と燃料は、同じものの表と裏なのかもしれない。


「その絵、今も描いてる?」

「はい、毎日。ただ、東京に来てみたら、上手い人がいっぱいいて、なんか急に自信なくなって……でも、それだけが私に残ってるので、やめるつもりはないです」

「その言葉、今も覚えてる?」

「毎日、覚えてます」


 由紀は、コーヒーカップを両手で持ちながら、じっとミカの話を聞いていた。

「私も同じような言葉を持ってた。高校の時、担任に『東京に出なきゃ何者にもなれない』って言われて。その言葉を、ずっと信じて生きてきた」

「それ、担任の先生が言ったんですか」

「励ましのつもりだったのかもしれない。でも私は、その言葉を、自分の存在価値の根拠みたいに使ってきた。東京にいる限り、自分はまだ正しい選択をしてる、みたいにね」


 ミカはしばらく黙っていた。

 それから、少し慎重に言葉を選んで言った。

「由紀さんは、今も、その言葉が正しいと思ってますか」

 由紀は、少し間を置いた。

「分からなくなった、というのが正直なところ。今の私は、東京にいるのに、何者でもないから」

 答えながら、由紀は自分の言葉を自分でも初めてちゃんと聞いた気がした。

「東京にいるのに、何者でもない」

 ——それはここ数か月の自分の状態を、一番正確に言い表していた。


 十年かけて手に入れたはずのものを全部失って、地下の資料管理室で古い書誌データを整理している。

 それでも東京を離れなかった理由は、ただの意地だった。

 意地の下を支えていたのは、あの担任の一言だった。

 それだけではなかった、と由紀は思い直した。

 あの言葉がなくても、由紀はどこかで自分を証明したかった。

 故郷の狭い空気の中で、「あなたには無理」と言われた経験が、由紀には確かにあった。

 誰かに言われたわけではなく、ただ、そこにいると自分の可能性が少しずつ削られていくような感覚。

 あの感覚から逃げるために、由紀は東京に来た部分もあった。


 担任の言葉は、後押しの言葉だったかもしれないが、由紀の足を東京に向けさせたのは、もっと根深い、自分自身の何かだったのかもしれない。

「じゃあ、その言葉が間違ってたとしたら?」

 ミカが言った。

 静かで、しかし真っ直ぐな問いだった。

 由紀はしばらく考えた。


「間違ってたとしたら、私はこの十五年間、間違った地図で走り続けてきたことになる」

「でも、走ってきたことは、本物ですよね。間違った地図でも、走った距離は嘘じゃないし、途中で出会った人も、仕事も、本物だったんじゃないですか」

 十七歳の少女に言われた言葉に、由紀は何も返せなかった。

 間違った地図でも、走った距離は嘘じゃない。

 その言葉は、由紀がこれまで自分に言い聞かせようとして、ずっとうまく言えなかったものだった。


 由紀はコーヒーカップを置いて、ミカに正直に言った。

「あなた、ずいぶん大人なこと言うね」

「そうですか? 私、全然大人じゃないですよ。昨日、終電逃してベンチで泣いてたし」

 二人で少し笑った。

 笑った後に、由紀はゆっくりとミカに聞いた。

「今日、どうする? 東京に残る? 帰る?」

 ミカは答えをすぐには出さなかった。

 窓の外を少し見てから、「帰ろうと思います」と言った。

「帰って、どうするの」

「分かんないけど……昨日、由紀さんと話して、なんか、帰ることが負けじゃない気がしてきた。一回帰って、ちゃんと親と話してみようかなって。美大のこととか、全部決めてから出てきたわけじゃなかったから」


 帰ることが負けじゃない。

 由紀は、その言葉を、自分の中でゆっくりと転がした。

 ミカに向けてそれが言えるのに、自分自身には、まだそれが言えなかった。

 十七歳の少女にとっての「帰る」と、三十三歳の由紀にとっての「帰る」は、同じではないかもしれない。

 それでも、その言葉が由紀の胸の奥にある何かに、確かに触れていた。


 ミカを駅まで見送った帰り道、由紀は一人、細い朝の光の中を歩いた。

 地元への帰り方を調べているミカに、由紀はバスの乗り場と、電車の接続を一緒に調べてやった。

 出発前、ミカは「由紀さんも、いつか帰れるといいですね」と言った。

 十七歳の子供が言う「帰れるといいですね」は、余計なお世話のはずなのに、由紀には不思議とそう聞こえなかった。

 ミカは「ありがとうございます」と何度も言いながら、改札の向こうへ消えていった。


 見送った後、由紀はしばらくその場に立っていた。

 昨夜のミカは、由紀の十五年前だった。

 でも、帰ることを決めたミカは、もう由紀の過去ではなく、由紀が今まだ辿り着けていない、何か別の場所にいるような気がした。

 ミカは帰る。

 由紀には、まだその決断ができない。

 それは、ミカより弱いからではなく、由紀が東京で積み上げてきたものの重さが、十五年分あるからだろう。

 でも、そのことを「仕方がない」ではなく、「まだ途中だから」と言える自分の声が、今朝は確かにあった。


 地図が間違っていたとしても、走った距離は本物だ。

 由紀は歩きながら、その言葉を何度か繰り返した。

 間違いと正しさの間ではなく、ただ、自分が歩いてきた道そのものを、もう少し丁寧に見てやっていいのかもしれない。

 その考えは、この十五年間で由紀が一度も向けてこなかった、自分自身への眼差しだった。


 途中、マリアさんの軒先の前を通ると、もうシャッターが下りていた。

 ただ、昨日ここに花があったという痕跡だけが、アスファルトの上に小さな水の染みとして残っていた。

 由紀はそこで一度立ち止まり、今日また夜になれば、また花が並ぶのだと思った。

 昨日と同じ場所に、昨日と同じように。

 変わらないことが、弱さではなく、強さになりうる。

 そんな考えが、由紀の頭をかすめた。

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