第14話 かすみ草の理由
ミカを見送った翌日の夜、由紀はいつものホームのベンチに座っていた。
マリアさんの軒先に、今夜も花が並んでいた。
小さなブーケが五つ、六つ。かすみ草の小束が、その端に一つある。
昨夜もらったかすみ草を、コップに挿して家に置いてきた。
飾る、というには質素すぎる格好だったが、それでも花は確かに咲いていた。
改札を出てから、由紀は迷わずマリアさんの方へ歩いていった。
「こんばんは」
「あら、昨日の方。今日も遅くまで」
マリアさんは由紀の顔を覚えていた。
笑うとほんの少しだけ目の端に皺が寄る。
六十代だろうか、あるいはもっと上だろうか。
白髪交じりの髪をゆったりとまとめ、仕立てのいいコートを着ている。
花屋というより、どこかの美術館の学芸員のような品がある人だった。
昨夜もらったかすみ草のことをお礼として言おうとした由紀より先に、マリアさんが口を開いた。
「昨日、若い子と一緒に帰ってたでしょう。お知り合い?」
「昨日会ったばかりで。終電を逃した子で、うちに泊めたんです」
「そう。あなた、優しい人ね」
由紀は、その言葉に少し戸惑った。
優しい、と言われたことが、久しぶりだったからかもしれない。
「昨日のかすみ草、家に飾りました」
「よかった。似合いそうだと思って」
「マリアさん、少し聞いてもいいですか。なぜかすみ草を、いつも端に置いてるんですか。売れにくそうなのに」
マリアさんは少し間を置いてから、花を一本手に取り、由紀に向けて差し出した。
「見てみて。これ、主役になれる花だと思いますか」
由紀は手に取った。
白く細い茎に、米粒ほどの小さな白い花がいくつも咲いている。
地味といえば地味だ。
薔薇でも、百合でも、ガーベラでもない。
名前を知らなければ、野原の雑草と言われても不思議ではない。
「主役には、なれないですね」
「そう。でもね、薔薇を束ねる時に、かすみ草が一本あるだけで、全体がやわらかくなる。主役を引き立てながら、ブーケ全体に息を与える花なの。なくても困らないけれど、あると全然違う。私はそういう花が、昔から好きで」
由紀は、手の中のかすみ草をもう一度見た。
小さくて、地味で、単体では誰の目にも留まらない。
けれど確かに、それがそこにあることで、何かが違ってくる。
由紀が四年間担当してきた新人作家の原稿に、何度も赤を入れ続けてきたこと。
著者の隣に立ち、その言葉を整え、届けてきたこと。
それは、主役の花ではなかった。
かすみ草の仕事だったのかもしれない。
そう気づいた時、由紀の中に奇妙な感覚が生まれた。
恥ずかしさでも誇りでもなく、ただ、初めて見た景色を前にした時のような、静かな驚き。
「マリアさんは、どこの出身なんですか」
「フィリピンです。若い頃に日本に来て、もう四十年以上ここにいる」
「四十年」
「ええ。最初は言葉も分からなくて、仕事もうまくいかなくて。ここで結婚して、子供も生んで、夫に先立たれて——いろいろあったわね」
マリアさんは事もなげに言ったが、「いろいろ」という一言の中に、由紀には想像もつかない重さがあることは、声の落ち方だけで分かった。
四十年以上を、外国の言葉の中で生きてきた人の話し方は、言葉数が少ないほど、かえって奥行きを感じさせた。
「子供さんは、今も?」
「いますよ。もう結婚して、孫もいる。こんな時間まで一人で花を売ってると心配されるけど、これが私の時間だから、やめられない」
子供に心配されながらも、自分の時間を守っている。
由紀は、その話を聞きながら、この先の自分を想像しようとした。
三十三歳の今、由紀の周りには、心配してくれる人間は涼子くらいしか思い浮かばなかった。
両親と健太は、由紀が心配させていた側だった。
「花を売り始めたのは、いつ頃ですか」
「夫が亡くなった後です。何もやることがなくて、家にいると静かすぎて。もともと花が好きだったから、仕入れて並べてみたら、それがとても落ち着いた。お金のためというより、毎日ここに来る理由が欲しかったのかもしれない」
由紀は、マリアさんの言葉をゆっくり受け取った。
毎日ここに来る理由。
その言葉に、由紀は自分のこの数週間のホーム通いが重なった。
由紀もまた、どこかへ向かうためではなく、ただここにいる理由が欲しくて、毎晩このホームに来ていた。
マリアさんと由紀は、求めていたものが、もしかしたら同じだったかもしれない。
「かすみ草をいつも置くのは、夫のこととか、関係あるんですか」
由紀は少し踏み込んで聞いた。失礼かもしれないと思ったが、マリアさんは穏やかな表情のままだった。
「夫が好きな花だったの。夫はとても地味な人でね、派手なことが何一つできない人だったけれど、いつも私の隣に静かにいてくれた。主役にはなれないけど、いないと全体が崩れる——かすみ草みたいな人だったから、私もそれが好きになった」
由紀は、しばらく言葉が出なかった。
主役にはなれないけど、いないと全体が崩れる。
それが最も愛しいものの姿だと、マリアさんはごく自然に語っていた。
由紀は、自分がこれまで何に価値を置いてきたかを、改めて考えた。
編集長候補という肩書き。
業界内の評価。
翔太との「お似合いのカップル」という見た目の完璧さ。
由紀が好んで集めてきたものは、全部「主役の花」だった。
かすみ草のようなものを、由紀は意識したことがなかった。
いや、むしろ意識的に遠ざけてきたかもしれない。
思い返せば、由紀は仕事の中でも、かすみ草の役割を担っていた部分があった。
著者の言葉を丁寧に整えること、売れない新人に付き合って何度も原稿を読み直すこと、広報担当が見落とした著者の魅力を一言で言語化すること——そのどれもが、主役になる仕事ではなかった。
それを、由紀は「編集者としての本分」と割り切りながら、どこかで「次はもっと目立つ場所に行く」と思い続けていた。
かすみ草の仕事を、いつか薔薇の仕事にしようとしていた。
その焦りが、由紀の十年間の奥底に常にあったかもしれない。
「誰かを引き立てることを、惜しいと思ったことはないですか」
由紀が聞くと、マリアさんは少し首を傾けてから、笑った。
「若い頃はあったわよ。もっと目立ちたかったし、もっと誰かに特別扱いされたかった。でもね、夫が死んで、この軒先に花を並べるようになって、通り過ぎる人がたまに立ち止まってくれる時間の中で、気がついたら、そういう気持ちが薄れていた。目立たなくても、ここにいることが、誰かの夜をほんの少し変えることがあるとしたら——それで十分だと、今は思ってる」
目立たなくても、ここにいることが、誰かの夜をほんの少し変えることがある。
その言葉が、由紀の中でしばらく響き続けた。
昨夜、ミカのためにお茶を淹れた。
特別なことは何もしていない。
ただお茶を淹れて、話を聞いた。
それだけのことが、ミカの朝を変えたかもしれない。
そして今夜、マリアさんの話を聞いている由紀の夜も、少しだけ変わっている。
由紀は財布を出して、かすみ草の小束を一つ買った。
昨日と同じ花を、今日もう一度買いたかった。
マリアさんは受け取りながら、「また来てね」と言った。
「はい。また来ます」
由紀はその言葉を、これまでになく自然に言えた気がした。
ここに来る理由が、由紀の中にも、少しずつ生まれてきていた。
主役の花ではなく、かすみ草のような何かが、由紀の人生にも、まだ息づいているかもしれない。
その感触は小さく、曖昧で、まだ言葉にはならなかった。
それでも確かに、手の中のかすみ草と同じ温度で、由紀の胸の中に在った。




