第15話 背中を押す者
ミカからLINEが来たのは、マリアさんと話した翌日のことだった。
『由紀さん、昨日ぶりです。実は、帰るって決めたのに、新幹線のチケット、どうやって買うか分からなくて』
由紀は思わず苦笑した。
東京に飛び出してきたのに、新幹線のチケットの買い方を知らない十七歳。
昨日まで、ミカのことを「帰ることを決めた強い子」だと思っていたのに、その強さは、こういう場所には届いていなかった。
『今日、仕事終わってから会える?』
由紀はそう返信して、スマートフォンをポケットに入れた。
地下の資料管理室では、今日も古い書誌データの整理が待っていた。
それでも由紀の足取りは、この数週間で一番、軽かった。
昼休み、由紀は涼子に電話をかけた。
「ちょっと聞いていい? 未成年の子が家出してきてて、今日の夜、一緒に帰りの新幹線のチケット手配を手伝おうと思ってるんだけど」
「……なんか色々あったね、最近」
涼子は呆れた声で笑ってから、すぐに切り替えた。
「その子、帰る意思はある? 親には連絡してる?」
「本人は帰ると言ってる。親への連絡は、まだみたい」
「それ、先に親に連絡させた方がいい。未成年なら、親が把握してない状況で新幹線に乗せるのはリスクあるよ。到着駅で迎えてもらえるなら、その方が安心だし。由紀一人で抱えないで、私も今夜行くよ」
さすが涼子だった。
由紀一人では、そこまで頭が回っていなかった。
「ありがとう」と言ったら、「友達でしょ」と涼子が笑って電話を切った。
その言葉が、由紀には少し沁みた。
この数か月、由紀は誰かに頼ることを、ほとんどしてこなかった。
翔太にも、会社の誰にも。
自分一人で抱えることが、強さだと思っていた。
涼子が当たり前のように「行くよ」と言ってくれたことの、その当たり前さに、由紀は今更ながら、友達というものの重さを感じていた。
夕方、由紀は地下を出て、いつもの駅でミカと待ち合わせた。
ミカは昨日と同じリュックを背負って、少しだけ顔色が良くなっていた。
由紀の隣に涼子が来ると、ミカはきょとんとした顔をしたが、涼子がすぐに「友達の涼子です、一緒に段取りやろう」と明るく言い、場の緊張を解いた。
まず、涼子がミカに穏やかに確認した。
「お家に連絡できる? お母さんでも、お父さんでも」
ミカはしばらく黙ってから、「お母さん……あんまり話したくないですけど」と言った。
「話したくない気持ちは当然あると思う。ただ、今夜帰ること、一人で決めて乗っても、向こうで迎えてくれる人がいた方が安心できる。電話するのが難しかったら、LINEでも構わないと思う。文章なら、少し楽に言えることもあるから」
涼子の言い方は、押しつけでも、諭すでもなく、ただ、ミカの隣に立って話しているような声だった。
由紀はその様子を見ながら、涼子はこういう時、本当に上手いなと思った。
ミカはしばらく考えてから、スマートフォンを取り出した。
「じゃあ、LINEで送ります」
三人で駅のベンチに座り、ミカがLINEを打つのを、由紀と涼子は黙って待った。
ミカの指が、止まったり動いたりを繰り返す。
二分ほどして、「送りました」と小さな声が聞こえた。
画面を覗かせてもらうと、ミカは母親に『今日、帰る。駅に来られる?』とだけ送っていた。
由紀は、そのたった一文の重さを想像した。
二日間いなくなっていた娘が、一行で帰ると言ってくる。
母親は今、どんな気持ちで画面を見るだろう。
返信は五分もしないうちに来た。
『わかった。迎えに行く』。
それだけの一文だったが、ミカの目が少し潤んだ。
「良かった」と涼子が言い、「良かったね」と由紀も続けた。
ミカが画面を伏せてから、「お母さん、怒ってると思ってた」と小さく言った。
涼子が「怒ってるかもしれないけど、迎えに来るって言ってるから」と答えた。
由紀は何も言わずに、ミカの隣に座ったままでいた。
怒っているかもしれない、でも来る。
その「でも」の部分に、親というものの核があるのだと、由紀はぼんやりと思った。
健太が何度も連絡をくれていたことを、由紀は思い出した。
「仕事忙しいんだろうから気にしなくていいよ」と言いながら、それでも連絡をくれていた。ミカの母親と、同じ「でも」を持っていた人間が、由紀の家族にもいた。
それから三人で新幹線のチケットをアプリで取り、ミカの乗る便を確認した。
改札まで二人で見送ることにした。
歩きながら、ミカが少し照れくさそうに言った。
「絵、帰ってからも描き続けます。美大に行けるかは分からないけど、描くのはやめないって決めました」
由紀は、昨日ミカに言われた言葉を思い出した。
「間違った地図でも、走った距離は嘘じゃない」。
その言葉をくれた子が今、自分の地図を自分で引き直そうとしている。
「描き続けてね。それだけで、十分だと思う」
由紀はそう言いながら、自分の口から出た言葉に、自分で少し驚いた。
「描き続ければ十分」——それは、由紀がこれまで自分自身に絶対に言わなかった言葉だった。
目標を達成してこそ、正しい努力だと信じてきた由紀が、誰かに向けて、ただ続けることの価値を口にした。
言葉は、思いがけず、自分の中から来ることがある。
ミカが改札を通り、振り返って手を振った。
由紀と涼子も手を振り返した。
改札の向こうに消えるまで見送ってから、由紀は思いがけず、目の奥が熱くなった。
泣くほどのことではないはずなのに、何かが由紀の中で、少しずつ溶けていくような感覚だった。
涼子が隣で「なんか、良かったね」と言いながら、缶コーヒーを二本買ってきて、一本を由紀に渡した。
「由紀、最近、少し顔が違う」
「そう?」
「なんか、前より、柔らかい。左遷される前の由紀って、いい意味でも悪い意味でも、ちょっと近寄りがたいとこあったから」
由紀は缶コーヒーを一口飲んで、何と返せばいいか少し考えてから、言った。
「色々、なくなったから。鎧が」
涼子は笑って、「そういうこともあるんだよ」と言った。
「ねえ、由紀、これからどうするの。会社、ずっと地下にいるつもり?」
「……分からない。もう少ししたら、何か決めないといけないと思ってるけど」
「焦らなくていいと思うけどね、私は。ただ、地下にいる由紀を見てると、もったいないとは思う。由紀が一番、自分を小さく使いすぎてるって感じるから」
涼子の言葉は、いつも直球だった。
由紀はそれが時々苦手で、同時に一番ありがたかった。
自分を小さく使いすぎている。
その言葉は、由紀の胸に、じんわりと沁みていった。
帰り道、由紀は一人で歩きながら、自分の中で何かが変わったのをはっきりと感じていた。
ミカのために動いたこと、涼子に電話したこと、三人で一緒にチケットを調べたこと——特別なことは、何もなかった。
ただ、誰かのために足を動かし、誰かに頼り、誰かと一緒にいた。
それだけのことだった。
しかし、この数か月、由紀の中で完全に止まっていた何かを、少しだけ動かした気がした。
考えてみれば、由紀はずっと一人で何かをし続けてきた。
仕事も、恋愛も、失意も。
誰かに頼ることを、弱さだと思って避け続けてきた。
でも今夜、涼子を呼んで正解だった。
涼子がいなければ、ミカの親への連絡という肝心な一手が抜けていた。
一人でできることの限界と、誰かと動く時の手応えを、由紀は今夜、久しぶりに体で知った。
地下の資料管理室で一人、書誌データを整理するだけの毎日。
それが昨日までの由紀のすべてだった。
でも今夜、由紀は誰かの背中を押した。押せた。
それが、由紀の中で、止まっていた時計の針を、確かに動かした。




