第16話 鳴り響くベル
その着信は、木曜日の夜、資料管理室の残業中に来た。
画面に「健太」の文字が出た瞬間、由紀の手が止まった。
電話だった。
LINEではなく、電話。
それだけで、由紀には何かが違うと分かった。
健太が電話をかけてくるのは、由紀の記憶の中で、数えるほどしかない。
「もしもし」
「……姉ちゃん、出た」
健太の声に、由紀は何かを感じた。
安堵と、疲れと、それから、ずっと抑えてきた何かが滲んでいるような声だった。
「母さんが倒れた。脳梗塞って言われて、今、救急病院に入院してる。意識はある。ちゃんと話せる状態じゃないけど、命に別状はないって先生が言ってる」
由紀はしばらく、何も言えなかった。
頭の中で言葉が形を作ろうとして、何も出てこない。
「そう」も「大丈夫?」も、どれも違う気がした。
「父さんも俺も、今病院にいる。……ほんとは何度もLINEしたんだけど、姉ちゃん、返事くれないから。今日は、電話しようと思って」
健太の声が、少しだけ揺れた。
怒っているのではなかった。
ただ、長い間、一人で言えなかった言葉が、今夜、ようやく声になったような揺れ方だった。
由紀はその揺れを、受け取った。
何度も連絡していた。
返事くれないから。
その言葉の重さを、由紀はこの一年間、きちんと受け取ってこなかった。
自分が無視してきたのではなく、「今は無理」と繰り返してきただけだと思っていた。
でも、無視と「今は無理」の繰り返しは、受け取る側には同じことだったかもしれない。
「ごめん、健太。すぐ、行く」
言葉が出た。
迷う前に、出た。
電話を切って、由紀は資料管理室の蛍光灯の下で、しばらく動けなかった。
頭の中で、複数のことが同時に動き始めた。
翌日の仕事のこと、実家への交通手段のこと、今の自分の状況のこと。
でもそれより先に、浮かんでくるものがあった。
帰ったら、負け。
十年間、ずっと言い聞かせてきた言葉が、この夜も、由紀の中から声を上げた。
仕事も恋人も失った今でも、その声は消えていなかった。
むしろ今の由紀の方が、帰ることへの抵抗感は強いかもしれない。
東京で成功した姿ではなく、すべてを失った姿で帰る。
それは、由紀が最も恐れてきた形だった。
地下室で書誌データを整理している三十三歳が、何も手に入れられなかったと白状するようなものだ。
でも、今夜は、その声を聞きながら、由紀は別のことも考えていた。
健太が何度も連絡をくれていた。
母の血圧が上がったと、法事があると、台風で屋根が傷んだと。
そのすべてに、由紀は満足な返事を返してこなかった。
「仕事が忙しい」という理由で、由紀はずっと実家のことを「遠い話」として処理してきた。
でも今夜、健太の声に滲んでいた疲れは、仕事の疲れではなかった。
一人で抱えてきた、長い年月の重さだった。
由紀が東京にいる間、健太はずっとそこにいた。
病院の付き添いも、近所への対応も、台風の後の修繕の手配も、すべて健太が一人で引き受けていた。
由紀がLINEの履歴を遡ったあの深夜に、うすうす分かっていたことが、今夜、健太の声で確かなものになった。
由紀は十年間、家族に対して、何も返してこなかった。
スマートフォンを握ったまま、由紀は蛍光灯の下に立ち尽くした。
この葛藤は、単純ではなかった。
帰りたい、でも帰りたくない。
母のそばにいたい、でも今の自分の姿を見せたくない。
健太に「ごめん」と言いたい、でも「ごめん」を言いに帰ることそのものが、由紀にとって何かを認めることになる。
「東京で何者にもなれなかった自分」を、故郷の空気の中で直視しなければならなくなる。
十年間、それだけを恐れてきた。
由紀はスマートフォンを開き、新幹線の検索をした。
最終便には、もう間に合わない。
明日の朝一番の便だと、午前中には着ける。
仕事は、上司に連絡すれば、家族の緊急事態なら休める。
問題は、そこではなかった。
問題は、この選択が、単なる「帰省」ではないことだった。
由紀が今まで守ってきた「東京に留まる」という意地を、崩すことを意味していた。
理由が何であれ、由紀が実家の駅に降り立つことは、十年間の答えを、まだ出せていない自分が、故郷に引き戻されることと同じだった。
そう感じてしまう自分がいることを、由紀は今夜、よく分かっていた。
でも、と由紀は思い直す。それは本当に「同じ」なのか。
ミカのことを思い出した。
ミカは「帰ることが負けじゃない気がしてきた」と言っていた。
由紀はその言葉を、ミカに向けて優しく受け取った。
でも自分には、ずっとその言葉を向けないままでいた。
十七歳の少女には言えることが、三十三歳の自分には言えない。
その理由は何だろう。
プライドか。
恐怖か。
それとも、帰ることで「失敗した」と認めなければならないような、自分自身への厳しさか。
由紀は手帳を開いた。
来週の仕事の予定を確認しながら、同時に、実家の近くの病院名を健太にLINEで確認する。
すぐに返信が来た。
病院名と、母の病室番号が書かれていた。
最後に、『来られるなら来てほしいけど、無理しないで』と一言添えてあった。
無理しないで、という言葉を、由紀はこの十年間、何度も受け取ってきた。
健太からも、両親からも。
その言葉の裏に、「来てほしい」が隠れていることを、由紀はずっと知らないふりをしてきた。
でも今夜、健太の声を聞いた後では、その「来てほしい」を、もう無視することが、由紀にはできなかった。
由紀は明朝の新幹線を一本、予約した。
画面の「購入完了」という文字を見て、由紀はしばらく、その画面を眺めていた。
不思議なことに、涙は出なかった。
怖さも、怒りも、特定の感情として現れてこなかった。
あるのはただ、長い間止まっていた何かが、ようやく動き始めたような、静かな感覚だった。
負けではない、と自分に言い聞かせようとした。
でも今夜は、そう言い聞かせることすら、やめた。
負けかどうか、そんなことは今夜には関係がない。
母が病院にいて、健太が一人で支えていて、由紀は明日の朝、そこへ行く。
それだけだった。
由紀は健太にもう一度LINEを送った。
『明日の朝、一番早い便で行く。病院、直接行く』
返信は数秒で来た。
『わかった。待ってる』
それだけだった。
それでも由紀は、その言葉に、健太の十年分の気持ちが込められているような気がして、スマートフォンをしばらく胸に当てていた。
荷物をまとめながら、由紀は今夜初めて、故郷のことを「帰る場所」として想像してみた。
これまでずっと、故郷は「出てきた場所」だった。
逃げた場所、とも言えた。
でも今夜、由紀が向かおうとしているのは、逃げ帰る場所ではなかった。
母がいて、父がいて、健太がいる場所。
由紀が十年間、意識的に遠ざけてきた、でも確かに存在し続けてきた場所。
資料管理室の蛍光灯が、今夜も点滅していた。
由紀は電気を消して、ドアを閉めた。
地下のエレベーターに乗りながら、ふと、終電車を見送っていた頃から自分に起きた変化を思い返した。
ホームのベンチで人々を見ていた夜、マリアさんに話しかけた夜、ミカを連れて帰った夜、健太のLINEを遡った深夜、涼子と一緒にミカを送り出した夜。
一つ一つは小さな出来事だった。
それが積み重なって、今夜の「行く」という一言を、自分から引き出した。
十年間ずっと東京に縫いつけていた自分の足だった。
そして、ようやく、自分の意志で動こうとしていた。
誰かに言われたわけでも、追い詰められたわけでもなく、由紀が選んで、帰る。
その一歩は、敗北の一歩ではなかった。
まだうまく言葉にはできないけれど、由紀の中で、長い間凍っていた何かが、今夜、ゆっくりと溶け始めていた。




