第17話 究極のダイヤグラム
翌朝、新幹線に乗る二時間前だった。
由紀のスマートフォンに、見知らぬ番号からメールが届いた。
差出人は「株式会社エスプリ出版 企画統括部 柴田」とあった。
エスプリ出版は、由紀の会社のライバルにあたる中堅出版社で、ここ数年で文芸部門を急拡大させていた。
何度か業界のイベントで顔を合わせたことがある柴田という名前には、覚えがあった。
『突然のご連絡失礼します。由紀さんの編集者としてのご実績に以前より注目しており、一度お話しさせていただければと思っております。詳しくはお電話でお伝えしたいのですが、弊社の企画統括部への参加をご検討いただけないでしょうか。待遇については、現状を大幅に上回る条件でご提示できると確信しております』
三回読み直した。
「現状を大幅に上回る条件」。
今の現状は、地下の資料管理室での書誌データ整理。
それを「上回る」のは難しくないだろう。
問題はそこではなかった。
このオファーが何を意味するかが問題だった。
エスプリ出版の企画統括部。
それは、由紀がこれまで手の届かなかった、編集長より上の立場だ。
「企画統括」となれば、複数の編集者を率いる側になる。
つまり、由紀が玲奈に奪われた企画書も、堂島に切られた地位も、一気に取り戻す以上のものが、今、目の前に差し出されている。
由紀は立ち上がって、窓の外を一度見た。
それから、もう一度メールを読んだ。
業界内での由紀の評判は、左遷後も消えていなかった。
それどころか、優秀な編集者が組織の理不尽で干されているという話が、業界内で静かに広がっていたとしたら——このオファーのタイミングは、それを裏付けるものだった。
由紀は長い間、「自分は正しいことをしていたのに報われなかった」という思いを抱えてきた。
このオファーは、その思いを「事実」として証明する機会だった。
玲奈でも堂島でもなく、由紀の仕事には本当に価値があったのだと。
しばらく、スマートフォンを持ったまま動けなかった。
これが本当のダイヤグラムの分岐点だと思った。
東京で返り咲くか、故郷へ帰るか。
かつての自分なら、一秒も迷わなかっただろう。
これは、由紀が十年間求め続けてきたものの、正確な形をしていた。
仕事も、地位も、東京での居場所も、すべてが一つのメールの中に入っていた。
新幹線の出発時刻を確認した。
あと一時間五十分。
その時間に自分ははどこにいるべきなのか。
昨夜、「行く」と決めた。
健太は「待ってる」と言った。
でも今、手の中にあるのは、その決断を根本から揺るがすものだった。
窓の外を見た。
東京の朝は、今日もいつも通り動いていた。
通勤する人々、配達のトラック、コンビニから出てくるスーツ姿の男。
このダイヤグラムの一部に、由紀はもう一度乗れる。
いや、今度はもっと上位のレールに乗れる。
でも。
このオファーを受けた場合、今日、病院に行かない。行けない。
健太への「行く」を、「やっぱり無理になった」に変える。
母が病室にいる間も、由紀は東京でまた仕事の準備をしている。
十年間、ずっとそうしてきたように。
頭の中で、ここ数週間に出会ってきた言葉が、一つずつ浮かんでは消えた。
マリアさんの「急いで行かなくても、ちゃんと来るものは来る」。
ミカの「間違った地図でも、走った距離は嘘じゃない」。
涼子の「自分を小さく使いすぎてる」。
そして健太の「何度も連絡してたんだけど」という、あの揺れた声。
このオファーが来るのが、あと三か月後だったら。
三か月後だったら、もしかしたら迷わず飛びついていたかもしれない。
でも今夜のこのタイミングで来たことは、偶然ではない気がした。
由紀の中の何かが、試されている。
メールを閉じた。
閉じてから、また開いた。
もう一度読んだ。
やっぱり閉じた。
エスプリ出版。
企画統括部。
破格の条件。
それは事実として、由紀の手の届く場所にある。
でも「手が届く」ことと「今、手を伸ばすべき」かは、別の話だった。
仕事はまた見つかる。
エスプリ出版でなくても、編集者の仕事はある。
でも、今日の朝に母のそばに行くことは、今日しかできない。
健太が「待ってる」と言ったのは、今日のことだ。
明日でも、明後日でもなく、今日。
それは感情論だともう一人の自分が言った。
感情で動いて、キャリアを棒に振るのか。
十年間積み上げてきたものを、また一からやり直すのか。
翔太ならなんと言うだろう、と思った。
きっと「今すぐ連絡を取れ。母親のことは健太に任せておけ」と言う。
それは冷たい言葉ではなく、翔太なりの合理的な判断だ。
実際、今の由紀に一番「得」なのは、オファーを受けることだ。
自分の仕事の力量が証明され、待遇が改善され、東京での立場が戻ってくる。
それは本当のことだった。
でも、由紀は手帳を開いた。
柴田へ返信する文面を、いくつか頭の中で作った。
「ありがたいお話ですが、今は難しい状況で」。
「一度、お話だけ聞かせていただけますか」。
「少し時間をいただけますか」。
どれも嘘ではない。
でも、どれも今夜の由紀には似合わなかった。
メールに返信を打った。
『お声がけいただき、ありがとうございます。誠に恐縮ですが、今は家族の事情があり、すぐにご返答できない状況です。落ち着いた後、改めてご連絡させていただいてもよいでしょうか』
送信した。
画面を閉じた瞬間、由紀の中で何かが、静かにほどけた。
泣きたいわけでも、叫びたいわけでもない。
ただ、今まで全力で握りしめてきたものを、一本だけ手放したような、不思議な軽さがあった。
後悔するかもしれない。
一週間後、一か月後、「あの時オファーを受けておけば」と思う日が来るかもしれない。
由紀はそれを否定しなかった。
後悔の可能性を受け入れた上で、今日の朝、病院へ行くことを選んだ。
これはキャリアの話ではなく、由紀という人間の話だった。
それが正しい選択なのかどうかは、由紀にはまだ分からなかった。
でも少なくとも、「自分が今したいこと」をした。
それは、由紀がこの十年間、ほとんどしてこなかったことだった。
翔太との時間も、仕事への集中も、すべて「すべきこと」として選んできた。
「したいこと」を選んだのは、いつぶりだろう。
スーツケースのキャスターを引いて、マンションのドアを閉めた。
エレベーターを待ちながら、ふと、あの頃の自分を思い返した。
三色のインデックスシールを几帳面に並べ、完璧なダイヤグラムの上を走っていた、あの朝。
翔太の「話したいことがある」というメッセージに胸を弾ませ、自分の人生が計画通りに進んでいると信じていた。
あの頃の由紀には、今朝の自分の選択は、理解できなかっただろう。
駅への道を歩きながら、スマートフォンを一度だけ確認した。
柴田からの返信は、まだ来ていなかった。
来なくていい、今は。
今朝は、向かうべき場所がある。
改札を抜けながら、自分の中に、妙な落ち着きがあることに気づいた。
怖くないわけではない。
母の状態も、健太の顔も、父の言葉も、十年ぶりに直面するものが山ほどある。
それでも、足は前を向いていた。
ためらわず、やめたいとも思わず、ただ進んでいる。
この感覚は、由紀がこれまで仕事の中でだけ味わってきた、「自分の仕事に確信を持った時の感覚」と、どこか似ていた。
けれど由紀は今、確かに知っていた。
完璧なダイヤグラムより大切なものが、この世界にはある。
それが何かをまだ言葉にできない。
でも、それを探しに行く場所だけは、もう決まっていた。




